仏教は業論
ダライラマは東北大震災の起きたのは何故?
という問いにそれはカルマと答えたときく。
この発言に激怒した人もいたそうだが、私もそれは仏教の見解は仏教者として正しいと思う。
聞かれれば僭越ながら私も法王猊下と同じことをいうだろう。
じゃあ私たちが悪いのか?
すぐそういう話になる。
そうなるとまずいから、今の宗教は人類に反省を求めない。
だからますますやりたい放題。宗教の役割が果たせていない。
そもそも宗教は自分より大いなるものへの畏敬があってこそだ。それがない。
どこまでも人間様の世界だ。
それのどこが宗教だろう。謙虚さや敬虔さのないものはもう信仰ではない。
阪神大震災の折「神も仏もない!」と言って共感集めた偉いお坊様がいたが私はどうかと思う。
そういう時こそ神仏を見出すのが宗教者ではないだろうか。
「有情業尽きて大火に焼けるも、我がこの土は安穏なり」という境涯もまったく見えてこない。
ただの絵空事だ。
やれやれだ。
悪いとか良いとか言うと正邪の話になるが、そういう話では仏教の言いたいことからずれていく。
仏教の業論は無明から起こる。正邪の分別より深い世界だ。
正邪というより無明(根本的な真如への無知)というべきものだ。
大乗の業論は前に進むためにある。
責任論や犯人捜しのためじゃない。
それによればあらゆる不幸は根本無明のなせるところというべきなのだ。
問題は何を学び何をこれからすべきかだ。
カルマによって何事も生じるならそれにより光明も生まれる。
過去へ向きっぱなしでは業論は意味を失う。
大乗の業論とはかくあるべきものだ。