金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

「根本無明」の話

石原慎太郎さんが自殺を委託した人の病を「業病」といった点で物議をかもした。

この話では「業病」というイメージが「悪事の果てになる病」のイメージとしてとらえられている。

 石原さんの話自体は措いて、これを「仏教思想」と解説しているものもあったので誤りを正しておかねばと思いました。

 

仏教の用語ではこのような意味での「業病」はない。俗語である。

 

ただし業の結果、あらゆる苦楽は起きるというのが間違いなく仏教のテーゼだ。

 

問題はこの悪業は悪事という概念ではなく、貪瞋痴による誤りであるというのが仏教の考えである。

日常、不用心で風邪をひいたとしたら大袈裟にいうなら「痴」すなわち行為の愚かさということによると考える。

そういう考え方が仏教です。

 

私は講演に行くと業論で「いろいろな不幸の原因は仏教に照らせば業である。」といいきる。

先天的か後天的かは関係ない。

そこは仏教の考え方として曲げられないからだ。

仏教では因果論を否定するものを「邪見」と言う。

 

因果論こそが智慧の灯の第一歩だ。

 

 

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石原氏の話が否定されるのはいいが業論自体の否定は私は決してできない。

 

ただし、かといって不幸なのは自業自得だでは仏の教えはいらないことになる。

 

そもそもその自業自得がわからないのが等しく我々なのだ。

それを「根本無明」と言う。

 

我々は等しく根本無明に生きている。生れつき体が不自由な人や難病の人がいる。

業ですか?と言えば仏教はそう捉える。

だがその業は疑いもなく私たちの内にも等しくある業だ。

 

もしこの考えがなく、創造主「神」が人間を作るのだというならなぜ平等につくらないのかという疑問いもなる。

もっと大事なことはそうした業は万人に秘められていて誰かさんが特に悪いからだとは言わないのだ。

ましてや過去世の業はあくまでその人が見つめてこそそこに存在が認められる。

 

それでは弱い者いじめの業論になる。

 

そうではない、誰もが等しく同じような業を秘めて生きている。

だから懺悔文で「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴」という。

我々はアメーバーだった頃から輪廻し続けている。

だれでもあらゆる業を背負っている。

業論と輪廻転生はセットだ。

片方だけを肯定はできない。

業も輪廻も否定する人は仏教者ではないと思う。