現世が良くないのはカルマのせいだという考え。
業論だから当然仏教もそう言う教えです。
だから善い行いをして善い結果を得たい。
これはあるのですが・・・
悪い場合はどうする。
過去の出来事はもう過去だから本当言えばどうにもならない。
例えば過去に大勢人を殺してしまった。
これはもうどうにもならない。だってもう過去だもの。
いくらお祈りしても起きたことは帳消しになるわけない。
その行為は異熟という形で阿頼耶識に蓄積されていく。
いわばそういう魂の記憶。カルマっていう「もの」じゃないですよ。
ここは大事。
いわばそういうシステムがカルマ。
だけどそれはもう記憶だけだから今はもう関係者はいないんです。
今はだれも責めてはいないのだけど、自分責めだけはある。魂のトラウマといってもいい。これが悪因悪果。宿世の罪業だ。
たとえばライオンのような動物はいくらシマウマ食べても悪いカルマにはならない。
同じライオンに限りなく転生するだけ。
特別なカルマにならないから逆に抜けることもできない。
無論、悪もないから善もない。変化がない。
仏教では人・天の場合、これを「罪」として認めてから消去する。
懺悔が可能だからです。
でもね、どんなことしたのか前世のことなんか内容は分かりません。
ただ現世重大な不都合があれば、原因としてそれを推定して処理する。
ごまかすのは無理。
これを「已作の罪は伏蔵せず。」といいます。
そして削除するために陀羅尼などを唱える。読経をするという方法がある。
だけど過去の行為がなくなるわけじゃない。過去は過去だ。
どうにもできません。
それは責めたって無理だ。
だけど放っておくのはダメ。
チャンと消去する。
そうでないとまた不都合の連鎖が生まれます。
悪い事したのだから悪い結果でいいというのは仏教ではないのです。
悪い結果はリンクするから放置しない。
そして罪障消滅の宗教行為をしたら善行を積む。
罪をバネにして今度は善行に励む。
「未作の罪は敢えてつくることなかれ」
そこまでいかないと本当は無意味。だって今現在もいずれは過去世になるものね。
それが仏教の考えだと思う。
過去を手放すためのリセットの作業をする。それが滅罪ということ。
リセットしないで罪人だと思い続けるのは無意味だ。