金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

罪なんて消えっこない?

過去世の罪障消滅のためにお経や真言を読んでいる。
聞けば前世に良くない行為をしたので今の不幸や不都合があると思うというお話。
そういう方は結構多い。
確かにそこは仏教的な考え方です。
 
でも、それで本当に罪は消えるの?
罪が消えるってどういうこと?
やった行為は消えっこないのでは?
いくらお経を読もうが、修行しようが・・・。
 
分かりやすい話が現世で私が誰かを殺して金品奪う。
それで懺悔して滅罪護摩を焚いたり、お経や陀羅尼、読んだら罪は消えますか?
刑罰を受けないと法的には罪は贖ったことにならないでしょう。
それはすぐわかる。
じゃ刑罰受けたら罪は消えるの?
行為自体はきえるものではありませんね。いくら牢屋に入っても、たとえ死刑になっても私が殺した人は戻らない。
やった行為は過去の出来事だからです。もどるわけない。
 
このように罪な行いでなくても厳密に申せば一切の行為はとりかえしはつきません。
だからやった行為と罪は不可分だと考えたらだれもが皆、永遠に罪びとなのです。間違いのない人はいないし、先祖の罪だの、自分の前世があると考えるなら過去には日本中が槍や刀で殺し合いをしていた時代もあるのです。
そういう考え方では罪は絶対消えないものなのです。
 
 
しかるに仏教の「懺悔」はよく罪を滅ぼす。
 
これは過去の行為をそのまま罪としない考えだからこそ可能なのです。
ここのところを理趣経では「三界一切の衆生を殺害しても罪にならない」とまで言ってかなりショッキングではありますが逆説的に表現している。
そういう過去の罪があると思うのは、実は我々の心のなかの認識そのものなのですね。
しかし、罪は存在しないわけではない。
誤魔化しようのない我々の心がそれを知っています。
では我々はどういう行為に罪を感じるの?
分離ということです。
 
他者の利益と自分の利益を分けて考える心。これは末那識の働きで基本的に我々はそう思うようにできている。「根本無明」とはこれです。
 
だけど実は仏性ではそういう我他彼此を超越したものと一如である。
だから本当に罪がなくなるというには転識得智にして無余涅槃の境涯でないと難しいんですね。
しかしながら、今生きている我々の過去世の罪は誰も認識していない、自分の阿頼耶識以外は知らないのです。
だからこれを消すことは難しいようでそんなに難しくない。
だって過去世の罪ならもう現世にあなたの被害者も、あなたを深く怨んでいる人も誰もいないんですよ。今現在行う罪の方がよほど大変な罪です。
 
色々な陀羅尼にわずかに唱えるだけでも気の遠くなるような過去世の無量劫の罪を消せると書いてある。
私は嘘だと思いません。それを本当に信じて疑わなければね。
信じるのは何?
その陀羅尼に出会えたという奇縁です。
唱えることができるという奇縁です。
それを受け入れることが可能なのだという奇縁です。

それを信じるのです。
これらの真言阿頼耶識を洗ってくれることを。

本当はもう、百千万劫の過去世の罪なんてあなたの阿頼耶識のなかにしか存在していないのですから