仏教では基本的に罰という考えではない。
神罰と言うのはペナルティで、お前がしたことは良くないということを、宇宙の主宰者や創造主のような存在がそれによって教育し知らしめるという考えです。
例えば旧約聖書のノアの洪水。
神はたった一組の家族以外善からぬ者どもを地上から一掃しようと考えます。
これなどはもう神による教訓では無く処分と言う領域でしょう。
仏教でいう業と言うのはした行為を本当は悪だという認識があってそれによる反動をうけることです。ペナルティの裁量する人は自分以外いないのです。
極悪人で第三者に討ちとられたとしても、そういうレールを自分が作ってペナルティを課します。そこからみたら討ち取った人はそれを実行しただけ。
本当のレールは自分が引いている。
仏教でいうあの世の閻魔様も実際は阿頼耶識《根本識》のことでしょう。
神罰は認識を与えるという概念の物ですが、業報は本当の心である阿頼耶識は知っているという概念です。
知っているならなぜ悪いということをするのか、この無明は煩悩と同質です。
人を殺してなんとも思わなくても、業としてはマイナスと知っている。
マイナスの認識を強く持てば懺悔になる。
懺悔は自分は善くないという認識ですが、逆にそれによって阿頼耶識の中のマイナスは表出すべき業報として、人生に具体化する分は意識されて減るのです。
懺悔が業を減らすのはこのためです。
本当に懺悔することで人は己が罪に恐怖し、慄くのですが、この罪に慄くのが本当の自己への目覚めで悪業と融離が始まるからです。
自己と別れてこそその穢さがわかる。
糞尿なども胎内にある。だけど胎内にあるうちはあえて穢いと思わない。
駒大にいたころ、「禅学特講」で禅師から「人間は糞袋と宗門では言います」と教えられた。
いったん排泄したら汚くなる、触れようとは思わない。
そのように悪とは離れてみて初めて認識できる。
自己の本質に目覚めることが懺悔の意味です。
ゆえに「若欲懺悔者 端座視実相 衆罪如霜露 慧日能消除」
( もし懺悔せんと欲せば端座して実相をみよ
もろもろの罪は霜や露の如し 智慧の日これをよく消除する )
と観普賢経に言うのだと思います。
たとえ話で言うなら酒をものみすぎて体を壊す。これは天罰ではなく自然の理です。
業報もこれと同じです。
仏教でも天罰に当たるものがありますが、それは諸天善神のような感情のある霊的な存在の怒りを買う場合です。
仏には罰がないものです。
只、観音経にいう「非体の戒め雷震の如し」、のように仏菩薩にも怒りでなくお慈悲からのいましめにはかなりきついものがあります。
仏の厳しい導きの姿が大忿怒の明王ですから推して知るべしです。
決して甘くありません。