理趣分読んでるとどんどん阿頼耶識が洗われる。
だからいろんな過去のことも思い出すのだという話はしました。
この間、一つ上の読み方を伝授した理趣分コースにいった行者さんから
「一時 収まっていたけど、この後、伝授された作法をいれて読みだしたらまた同じように昔のことが出てくるんです。
でも最初の内はマイナス感情ばかり噴き出出していて昔のこと急に思い出してはらわたが煮えくり返るような感情も出たり、ドッと悲しみにくれたり…
でも読み方変わってからそこまではもうあまり無いのだけども似た感じが起きてくるんですけど・・・。」と言われました。
つまり昔のなんでもない出来事を不意に思い出し、追体験する。
素読ではなく作法が入った、これはよりその阿頼耶識の浄化作用を強烈に推し進めます。
そうなるために素読が必要だったと言ってもいい。
実はこの作法の段階で出てくる昔の出来事はアンカーです。
思い出す出来事そのものは何でもないようにみえて実は洗い出しのための重要なアンカーなのです。
だけど洗い出しそのもそはより高度な形に移行していきますからそこは直面化はしない。なので激しいトラウマが表面に出て直面化することはより少なるのが作法の附いたやり方なんですね。
トラウマのまま阿頼耶識の中の「異熟」(因果の種)は意識にのぼらず消えていくのがひとつ上の理趣分の読み方になる。
まこと恐るべきは理趣真文の力だと思います。