今日、見えた修行者さんが言うには理趣分の前行はじめて、少し読んだけど辛くなって二、三回読んでやめたという。
ふつふつ怒りがわいたり、昔の思い出したくない嫌なことがどんどん意識に上る。
それで苦しい。
行はそうしたもの。
特に理趣分にはそういう作用がある。
精神分析療法みたいな・・・でもそれが理趣分の持つ力なのです。
それだからこそ心識の洗い出しができる。だからやめちゃダメです。
ことに祈願をしようと思うならまず自分をクリアリングしなきゃダメなのは当然です。
心理療法と同じ。自分がクリアリングできてないセラピストなんかにかかるのは悲劇です。セラピストが投影起こしまくって一体どうする?
ある意味、祈祷だって他人様の心識の奥をいじるのは同じ仕事です。
だから理趣分を訓読、音読都合200巻読んでクリアリングしてもらう意味は大いにある。前行ですから作法は抜きでただ読んでもらう。
行者は絶えずクリアリングしてしかも前に進まないといけない。菩提に向けて。
悟りなんて無理と決め込むと少しも進まない。クリアリングもできてこない。
心に菩提を置く、これ一番大事です。
これがないと何も成就しないばかりか魔道に堕ちる。
だから時々いるんだけど「祈祷も出来たら便利なんでやりたい!」という軽いスキルアップ感覚のスピ系や占い師さんには「その考えでは無理です」とお伝えする。
「自分のお客さんやクライエントを救いたいんです!」
それは尊いことですが、まず自分の道でなんとかやってみる。
占術なら占術でそこにも苦を救って楽を与える道はあるはず。
つまり誰であれ本当の意味で仏教者になってまで、そこまでするのか、否かということです。
かなり大変です。ガチに本気でないと無理です。趣味習うようにはいきません。
いえいえそこまでは余裕ないです・・・というならやめておくべきですね。
そういう判断も大事にしたい。