金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

大般若理趣分  菩薩の句儀

般若理趣分を多年読んでいるが何が書いてある?ということを聞かれると甚だ困る。

意味が解らないのか?

ハッキリってそれに近い。

説明ができない。

この経を聞いて理解するものはよほど修行が進んだ人だろう。

全然わからないのに説明だけできるよりはマシだ。

それは意味ないからだ。真如から見ればただの間違いより悪い。

 

だからまあ、講義というようなことは無理だが・・・

理趣分第一段にはすべてが菩薩の句儀と説かれる。

良くも悪くも。

菩薩の句儀とは何か?

菩薩だということだ。

全ては菩薩だということになる。

 

つまりすべては大乗の修行をしている存在なのだ。

どんなであっても前に進んでいる。

 

菩薩とは大乗の修行者だ。

 

この大般若理趣分の一つ前の能断金剛分(金剛経)が一切をして「○○は○○ではない、だが、それを○○という。」という有名な言い回しをする。

例を挙げれば「菩薩は菩薩に非ず。これを菩薩という」

こういうのを論理学で解こうとする人間は話にならない。戯論の最たるものだ。

そんな奴はなんにもわかりゃしない。

「○○は○○ではない」と「これを○○という」は同じ次元の話ではないからだ。

 

般若理趣分は「菩薩は菩薩ではない」という金剛経とは正反対に「○○は菩薩の句儀」という。

実は同じことだ。

○○は○○でないからこそなんにでもなる。

般若智から見れば〇〇はすべて菩薩と同義なのだ。

何でも菩薩になりうる。同時に菩薩も菩薩たりえない。

違いはそこに如来大悲の営みを見るか否かだ。

 

以前師匠に「密教では煩悩則菩提といいますが、煩悩則菩提ならなぜ菩提をあえて求める必要があるのでしょう か?」と聞いた。

答えは「それがわかるのは菩提の立場に立ってみて初めてわかるからだ」