観音信仰あれこれと言っても、全部の種類の観音様をよく拝んだわけじゃないからよくわからない方もあります。
むしろ、そっちのほうが多いのですが・・・
まず一番日ごろなじみのある十一面観音は修羅道の主催というだけあって、きつめの観音様です。
修羅というのは戦いの世界でしょう。
戦いの中にあって敵味方なく、矢は尽きて刀折れた人を救っていく。
だから甘い事は言っていられない。
自分のことは自分でしてもらう。
十一面様は戦場のナースや軍医みたいなもの。
甘いところはない。
この世もある意味、修羅道ですね。競争や戦いはどこにもある、当然勝つもの有れば負ける人もいる。
勝ち組の人もずっと勝つとは限らない。
それが人生。
でも大変なご祈願の折、よく救ってくれます。
だから観音信仰でずっときた人は大変なことでも必ずしも聖天様の御祈祷に変えてくださいとは言わない。
世間では聖天様は難しいお願いもかなうというけど、そういう定評よりも自分の得た体験の方を優先する。
それは正しいことです。なににおいても。
よく観音様の信仰は間違いがないといいます。
間違いがないというのはどういうことだろうか?
それは得たご利益が悪い方向に行かないということ。
たとえば宝くじが当たって大金持ちになった気分で、かえって財産蕩尽するというようなご利益はない。
困っている人にポンとお金あげるような救い方はしない。
自助努力的です。
だから世間でよく言う聖天様のご利益みたいな派手さはない。
そういう宝くじ当たる的ななことあがった場合は必ずそのお金は必要があって出ていきます。
余分なものはくれない。サプライズのプレセントもない。
だからビッグになりたいのでお願いしたいみたいのは天部信仰の方が向いている。
間違いがないというのはどういうことか。それは人間を育てるということだと思います。
観音様のお導きは教育的。
だから観音様の声に耳を傾けようとしない人は助からない。
観音信仰が長いならそれなりの徳というものができてしかるべきです。
徳の薄い私がそれを言うのは至って僭越ですが(笑)
どういうことかというと…何かにつけて安易に流れず。都合に流れずこれはどうなのだろうか?という考えをいつも持っておくことです。
仏法ではどう考えるか?
それが難しいなら観音様ならどう考えるか?
何時もそれを考えるのが観音信者には大事だと思うのです。
それが本当に成功する道だと思う。
だから聖天信仰にはそういう観音信仰の心も本当は不可欠。
私自身そう心においております。