「施無畏者」とは畏れなきを施すものの意味で観音様のことです。
観音様は祈れば必ずご守護はいただける。
でも、なんか起きたら観音様を拝めばいい。
怖いものからラクラクすべて逃れられるということではないと思います。
世の中そんなに甘くない。
しかし、観音様を信仰することで培われる力は人生の余裕と言う底力なると思います。
それには年月を得て信仰していくことが大事。
観音様とともに二人三脚で生きていってこそです。
ご利益ほしさにあちこちよそ見している段階ではそんなこと無理ですね。
昨日今日の信仰でそうはならない。
だから腰かけ信仰の人と講員さんは別に考えざるを得ない。
講員さんは観音様と歩む人と認識しています。
拙寺は祈願の団体のためではなく、観音様と歩むための団体です。
だから腰掛信者さんは入講なされなくていいんです。祈願だけなら諸行事でお頼みいただけるのでそれで十分。
聖天浴油やっていただきたいので入講したいとかいう人も時々いますが、純粋にそれだけならよそにも歴史ある立派な聖天様の御祈祷寺は沢山ある。
ありがたいお浴油が毎日上がるお寺もある。
そのほうがいいに決まっています。
うちなどに来る意味はない。
それだけが目的の人なら、もしも願いが叶わないなら入講しても意味なかったことになる。
私は「必ずかないますよ。だから入講しなさい。」などと言ったことはただの一度もない。
頼まれれば精魂傾けて祈りはしますが結果は全く請け負えません。
一生懸命祈るというだけです。ほかにはなにもない。
信仰することと頼み事することは違うと思うのです。
だから頼み事だけならば、それは「およそのお寺の聖天様」の方がいいでしょうと申しげることも多い。
受戒も入講もそんなのいらないでしょう。
私は施無畏の信仰にまで至っていただきたい。
施無畏の信仰ができるにはどうしても観音様がいかなるお方かを知るレベルでないと本当には施無畏の信仰にならない。