信仰をしても万事スムーズにいくわけではない。
これはご利益というような助け方もしてくれるが、逆に前に少しもすすめない時もある。
だがそれは当たり前なのだ。
聖天様を信仰してもそれはある。
いくら祈ってもなかなか解決しない。
その人を前に進ませようとするなら難問を投げかけるのが天尊だ。
「酷いじゃないか!」と思うだろうか?
先に進めば進むほどに難しい課題を出して我々の修行を勧める。
そうでなければ人に進歩はない。
だから尊天を祈りさえすれば何事もなく一生が終わるわけではない。
むろんご加護は厳然としてある。
中国伝奇小説「西遊記」は取経の旅を行く三蔵一行の話。
観世音は取経にふさわしい器に三蔵を成長させるため、天竺への旅をさせる。
行く手にはいろいろな困難が現れるが孫悟空はじめ神通力を持つ弟子たちがこれを助ける。彼らも成長の旅を行く者たちだ。
しかし、それでもいよいよというときは観世音や那咜太子などの助っ人が入る。
人生の旅を行くあなたにとって、聖天尊はこの孫悟空のようなものだ。
我々への天尊の最終的なお役目は仏道精進させることしかない。
いつまでもどこまでも安穏と平和で安全な楽園で安閑と過ごして何の人間修行になろうか。
そういう難儀を乗り越えた人の聖天信仰にはいかなる難儀あれども天尊や観自在菩薩のご加護で何とかなるという落ち着きが生まれてくる。
「難儀は節や。節から芽が出る」と言われたある新宗教の教祖がいたそうだがこの言葉は味わうべきだ。