冬の奥の院 今年は雪が早い。
私は飯縄様に理趣分をあげて、聖天様にはしまいの浴油をしました。
紙天蓋も新しくします。古いままうっかり焚いて一瞬にして燃えてしまったこともある。
この天蓋は同門の兄弟弟子に切ってもらいました。その人は器用なので師匠がよく紙天蓋は切らせていた。
お護摩は藤川師と助法者二名でお願いしました。
理趣分で拝んだ人型やお札を護摩の炎でさらにお清めします。
藤川師は護摩壇を置いてから祈願に磨きがかかったようにお見受けする。
わが師匠の寺にはもとは護摩堂はなかったのですが、最後に念願の護摩堂立てて15年間錬行されました。
やはり護摩は諸尊の秘奥です。本尊が喜ぶ。
よく焚く機会に恵まれればまこと行者の幸せです。
なかなか良い炎が上がっている!
炎のなかに金剛杵を持った神将のような形が…面白い。
こういう炎の姿はどう考えたらいい?
炎は我々の心識と連携しやすい。阿頼耶識の中から出てくるものが炎にも投影されると司会しています。そうした炎を操る技が火消三昧法です。
ではこうした現象は別段、仏の所為ではない?我々のこころのなせるところ?
どちらともいえる。仏も我も区別がないのが密教。
区別の心では説明はできても永遠に密教の真の理解に至ることは無理なのです。
我々の心の聖域を仏と言い、浄土という。
私たち凡夫はこの辺がスッキリ分けないと理解できない脳みそになっているので理解しがたいんです。
ですが仏教ではそういう区別したい心は無明のなせるものだという。
本覚讃でいうようにもとより「三十七尊住心城」ですから。と私は思っています。