如来寿量品 法華経後半のもっとも重要なところです。
前半の方便品は「諸法実相」を説く応身釈迦の説。つまり肉体のお釈迦様とされています。
後半のこの「寿量品」は宇宙をカラダとする法身の御説法ということになっていています。
まあ、法身と言ったって法身が明かされるという方が正しい。
釈迦の本地は「久遠実成の釈迦」ということ。
つまり仏弟子たちの目の前でいままでお釈迦様が教育してきた無数の弟子がどんどん出てくる。
「なんだ、なんだ、いつの間にこんなにお弟子が?」という疑問に対して、釈尊は実は遠い昔から何度もいろいろな世界に現れて涅槃の姿を示しては皆を導いてきた。彼らはその都度に弟子になった人たちだ。涅槃はそのためのジェスチャーであると明かします。
ここで大乗仏教は歴史上の釈迦の信仰から離縁としての釈迦への信仰に大きく舵を切るのです。
だから仏教と言っても上座部の人たちと話しても本尊が違うから話がかみあわない。
上座部の人たちに言わせばそんな物語のお釈迦様なんかダメという。
確かに法華経は故事ではなく、お釈迦様主人公の物語なんですね。
大乗仏教とは大乗仏典という神話をもとに信仰してるわけです。
だから宗教なんです。よく宗教じゃなく哲学というけど、それは上座部の話。
少なくとも大乗のスタイルは完全な宗教。
上座部はあえて言えば儒教の様な偉人に学ぶ道です。
でもなぜ大乗が生まれたのか?それはいくらお釈迦様でも人間である以上、欠点もある。完璧な人はいない。
キリスト様も野のイチジクに向かってなんでだか、腹を立てて枯れてしまえといったら即座に枯れてしまったという。すごいね。みな腹も立てば、泣きもする。
個人崇拝の問題はそこにある。
アラカンになった人が夢精したのでそういう奴はまだ欲があるから偽の阿羅漢だ。駄目だとかなんとかくだらない論争もあった。
人間である以上人間の生理は超えられない。
個人差程度はあっても超人なんていない!
五通の阿羅漢も所詮は人だ。
偉人に対する信仰は超人崇拝になる。
教祖様信仰。
それは釈迦自身の意志に反する。
偉人に対する信仰でなく、偉人のもつ素晴らしい美点や理念に対する信仰。それが大乗仏教では法身の釈迦を生んだのだと私は思っています。
学者は釈迦の神格化はバカバカしいおとぎ話のように言う人もいますが私は必要から起った大いなる知恵だと思っています。
だから法華経自身が釈尊をして、いつまでも私がいるとかえって皆にとって良くないから、皆さんの修行のために仮に涅槃にはいるんだと言わしめています。