時々うちあたりでも上座部仏教の方の書かれた本を読んで感激したなんて言う人もいます。
仏教は同じだからいいでしょう?なんて言うことも言う人もいる。
残念乍らうちは違います。それは上座部の本にもとるべき長所はいろいろある。
ですから本を読むことはいいでしょう。
私自身も上座部の瞑想も体験しました。そういう体験もいい。体験していけないことはなにもない。
しかし仏教に対する信仰という点では、日本仏教とまるで違うことだけは認識しておきたいものです。
したがって思想的には一世紀ころの成立で大乗初期から中期までの経典と思います。大乗における発展的思想の極みとか終局的なものではない。
これを法華最大一として諸経の王であるとしたのは隋の天台大師「智顗」ですね。
したがって法華最大一は思想史的には智顗の考えにとどまる。
当時の中国大陸の仏教はほかに華厳教学なども覇を競っていた。
だけど古来、強調されるのは後半の本門のほうで日蓮宗なんかはこの立場。
対するに天台はあえて本迹に優劣を言わないという。
金剛界はいわば時間軸的ですから、本門の真理は縦に「大通結縁」をいう。「諸法実相」は空間的で理の世界です。「大通結縁」ってなに?つまり本門は法華弘通の仲間たちは生れ代わり死に変わりして未来に広宣流布をして衆生救済をしていくのだということをいっている。
このスタイルは上座部の涅槃とは全く違んですね。
輪廻転生のままのスタイルでの涅槃。
「無住所涅槃」というスタイルにつながるのです。
つまり大乗的涅槃は「境涯」で存在の「状態」ではない。完全に煩悩を滅ぼすことにより心識を滅して、構成要素の四大が分解して何もかもなくなるのではないのです。
大乗は正反対、衆生済度のために永遠に輪廻してやむことはない。そういうスタイルの涅槃です。ゆえに煩悩の完全消滅は否定されます。
いわば輪廻に方向性を付けたわけですね。だから上座部の本にもよいことも書いてあるのだろうけど考えや目的は全く違うんですね。
無論,知ったうえで上座部がいいという人もいましょう。それはそれでいい。
いずれにしても、上座部とはまったく違う目的の設定。
それが法華経のそもそもの存在的な意味であったということは知っておきたい。
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