法華経はメタファーに富んでいる。法華七喩と言って七つもある。
一般の人にはあまり興味のないことかもしれないが、法華経の譬喩品にも「三車火宅のたとえ」というのがある。
家の中で三人の子供が遊んでいる。そう家もいつの間にか猛獣、毒蛇や悪鬼などに侵領されている。そこで遊ぶ子供は我々だ。
その家がいつの間にか忽然と火事になる。
家の中の子供はで遊んでいて出てこない。
そこで一計を案じて親は子供の興味をひく羊、鹿、牛の車があるぞと呼び掛けて、子供を誘い出し、子どもを危難から救い、等しく実に立派な白い牛の車を与える話である。
法華七喩の人るであるから要はたとえ話である。
家の中は危難に満ちた娑婆世界。
羊、鹿、牛の三つの車は古来は仏道の三乗すなわち声聞、(原始仏教の仏弟子) 縁覚(上座部仏教の仏弟子) 菩薩(大乗の修行者)の三つの道であり、戸外で本当に与えられる大白牛車は一仏乗、つまり一切衆生が「仏陀」になれるという法華経の教えであるという説明がなされてきた。
だがどうも私にはこの話が腑に落ちない。
シカや牛や羊の車にどれがどれだか知らないがそこに「菩薩乗」が入るのは腑に落ちない。
なぜなら法華経でいう菩薩乗は実は一仏乗の前提だからである。
一仏乗を歩むことは菩薩乗を歩むことに他ならない。
法華経は菩薩思想だ。
だが近年納得のいく論文に出会った。
実は仮に示された三車は声聞、縁覚、仏の三乗だというのである。
ただしこの仏乗は差別観に立つ上座部の仏乗であるというのだ。
誰もがなれる可能性のある法華経の一仏乗ではない。
古来この中の牛の車を実は大白牛車と同じと考える見解もある。これを言う見解を三車家という。
ようするに喩から引けば声聞、縁覚、仏乗を説いて、仏乗のみを与えるということであり車は三台切りないという考えである。
天台大師はこの説を取らず、三車の牛車と大白牛車は別とする四車家とされている。
勿論天台家は等しくこれを踏襲するものである。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/61/1/61_KJ00008548353/_