法華経って何が説かれているの?と聞かれるが・・・
法華経は釈尊を主人公とした神話と言ってよい。史実ではない。
上座部で伝えられている仏伝に比べれば、ファンタジーものと言っていいくらいだ。
物語の骨子は「種熟脱」の三益である。
つまり「種」仏縁を得て、
「塾」それを輪廻を繰り返しながらも培い、
「脱」最終的に解脱する。
それら「種 熟 脱」が常に行われてやまないのが仏の働きだということ。
如来寿量品では釈尊の無数の弟子が現れ、人々は驚く。
一体いつの間にこんなに多くの無数の仏弟子が・・・?
これはすべて過去無量劫の間において釈尊が教化してきた人々だ。
釈尊自らも大通智証仏の下種を受けて三千点侭劫を経て仏になった。
法華経を信じるということはそのレールに自らもまた載っていると信じることなのだ。
そうした壮大な仏の営みが説かれている。
ここでいう仏はゴータマ・シッダールタという人ではない。
人を悟りに導こうとしてやむことなき宇宙の意志の人格化である。これを天台学では「本門の釈迦」と言っている。
人間釈迦はその化身に当たるという。
これを「迹門の釈迦」という。
だから法華経信仰とはそういう仏の営みを信じることに尽きる。
法華経は言ってみればそういう荒唐無稽の神話なのだ。
霊的な宇宙的な営みが輪廻転生を繰り返しながらも継承されていく。
だが、これを信ぜずして法華も天台もない。
それを信じることこそ法華の行者ということにほかならず、わたくしもそう信じるものです。
迷信のようだが断じてさに非ず。
迷信とはもっと現実的なものだ。
非現実的な世界をそのまま現実にしようというのが迷信だ。
天台僧はこの下種をしていく、仏縁をまいていくことが務めと思います。
私のような愚僧でもそれはなんとかできそうです。