台密の法華経読経作法の一法のなかに「二乗厭離の心を射る」という印が出てくる。
二乗とは「声聞」と言う釈迦の教えをじかに聞いた仏弟子
「縁覚」といわれる他縁によって独り悟った人という人々。
この二つ。それを厭離する。
法華経の教えと彼らの相容れない点はいずれの修行者も仏にはなれないという考えだ。
阿羅漢と言う個の悟りを完成させる人々。仏陀と違い人を悟らしむる力はない。
法華経の行者はこれらの道を求めない。
この心を起こさねばならないのであるが、わざわざ学ぶことはなく、もともとその心は我々に備わっているという。
つまり二乗厭離の心はすでにあるというのだだ。
だから自らの持つその心を弓矢で射て喚起させる。
そういうことだ。
つまり個の悟りの否定だ。そんなのは本当は悟りじゃない。
生命全体が悟るまでは悟れない。
だから声聞や縁覚の悟りを否定する。
裏をかえせば、すべてのものが悟れるという法華経の教えは、具体的には誰も悟っていないということになる。そこに「私は悟った!」はない。
涅槃経や密教になると逆にもうすべての存在は悟っているという。
つまり「本覚思想」だ。
そこでは生きることがそのまま悟りと同義になる。
意識される智慧の働きではなく、もう生命に備わっている知恵の営み。
それがそのまま本覚の働き。そのまま仏道だという智慧。
「悟った!」という悟りではない。「如来と一つ」と言う悟りだ。
ある瞬間に闇が光に一変する「見性」のスタイルでなく、白々と夜が明けるように訪れる。
「そういうことだったのか」と言う悟り。
それが如来は既に久遠の過去から悟っていたという寿量品のお話になる。
難しく言うと本門の釈迦だ。だがこれは釈迦に限ったことではない。
すべての存在に言える。存在の大いなる肯定。
だから声聞 縁覚の智慧である四諦・八正道と違い、菩薩の六波羅蜜はただ実践でしかない。
そこに悟りの内容は提示されていない。
その悟りは「知る」と「生きる」の違いかもしれない。
「知る悟り」は人は言葉と言う檻に入れてキープしようとする存在だが、それをすれば即座に死ぬ。「言辞の相寂滅せり」だ。
だから生きることこそ悟りだ。