法華経のとても素晴らしいところは「大通結縁」ということ。
簡単に言えば縁を繋いでいく仏縁のリレーです。
種塾脱の三益ともいう。仏縁の種をまく それが熟して芽を吹き育つ そして仏果を得る この繰り返し。
だから寿量品ではお釈迦さまの前世からの弟子がいっぱい出て来る。
何度でもこの世に出てきて仏教者を作り、そしてまた浄土に帰っていく如来の活動が「如来寿量品第十六」には書かれている。
この如来寿量品は法華経本門の正宗分であり、分かりやすくいうなら法華経の最も肝心な部分です。
でもお悟り自体の話なんかは書いてはない。仏教者のありかたが書いてある。
悟るものは少なく、仏道を歩むものは多い。
だとすればある意味「仏道を歩むもののありかた」こそ最も目を向けるべき存在だ。
これは言葉を変えれば「仏の志」を受け継ぐということです。
それが己が悟りの道を歩みながら同時に仏縁を施すこと。
上求菩提下化衆生と言いますが、下化衆生の化とは単なる善行を施すのではなく
仏縁を施すことでなければ化といわない。
そういう大きな志がなければ大乗にならない。
一番大事なのは志だと教えているのが法華経。
悟りのいかなるかの話自体は般若経に山ほど出て来る。
でも悟っても志がそこで終われば一仏乗ではない。
二乗、三乗ということになる。阿羅漢で必要十分ということになる。
悟りがどうとかしか書いていないなら天台大師は法華経を最も大事なお経として選ばなかっただろう。化儀の通教、つまり仏教を貫く大目的である悟りについて書いた般若経だけで十分だ。
よく法華経の信仰団体で他所の仏教信仰を激しく攻撃したりして、それを広宣流布だとかなんとかいうけど、そんなことをしろとは法華経のどこにもない。
いわゆる「折伏」の語については法華経のうちに見いだせない。
中には布教の行き過ぎからストーカーや暴力沙汰になった話も聞くけど、いかに熱心でも仏弟子はそんなことするもんじゃないね。
そりゃただの執着だ。
どこに一切衆生救済の眼目があるんだか (笑)