金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

余経の一偈をもうけざる者に授けよ

法華経の中に「余経の一偈すら受けぬもの」にこの経をさずけるべしとあります。

つまり余計な知識のないまっさらな者にこそ大事な教えは授けるべきだと言う意味。

これをもって日蓮さんは余経つまり法華経以外のお経は読まないでいいと言われたわけです。

私は天台法華ですからそこの考えは違うのですが・・・この法華経の言う意味はわからなくはない。

 

とかく仏教通などと言う知識ある人ほど行はできないことがある。

ある意味、ああ、これ知ってるとかわかってるとか値踏みしてしまうんでしょうね。

自分の先入観で推し量る。

ここがもう間違い。

法華経でも500人のお弟子がいよいよ、お釈迦様が法華経を説くというときに座から立ってしまった。

「自分の知ってる佛教と違うことをお釈迦様はいいだしたぞ。これは違う。駄目だ。」という訳で、自分の考えですべて取捨選択する。

これを法華経では増上慢の人と言う。

こういう人は勉強はできても行や信仰はできがたい。真の仏弟子ではない。

 

佛教は黙って行をしてなんぼのものです。

むかし「護身法とかじゃなくて奥のものをやりたいんですけど…」と言った人がいました。

護身法が初心者向きの軽い法だと思っている人には到底なにも教えられない。

この発言の上に何かを教えることは自分も同じ考えに立つということになるので絶対に授けられない。

器じゃない典型。

「密教勉強したいんです。」と言う人もいました。勉強する?ものじゃないよ。

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  一方、知識満載の増上慢の人は指摘すると怒るのが関の山ですので「いやいや、すごいですね。よくごぞんじですね。貴方はもううちなんかで修行する意味は全くないでしょう。それこそ釈迦に説法です。」と言ってあくまでお客人としてお帰り頂いてます。

 

阿闍梨とはその方がどんなに知識が豊かで利口であり何を知っているかなどでは器を選びません。

そんなのゼロでもいい。

むしろいくら知っていてもゼロになってリセットして学べる器が必要。

器とはこの人はそれを教えるに足る人か否かだけです。