法華経の化城喩品。旅を行く一団が疲れ果てたとき、あ、あそこが目的地のお城だと言って一団を休ませるリーダー。
法華経でいうお城はインドの城郭都市ですから名古屋城のようなもんとは違います。
囲いに覆われた中に町があり、民家も商店も行政府もある。王様の家もある。
そこについたら宿でゆっくり休んで水飲んで食事取ってゆっくり休める。
外で休んでいたら、盗賊も来る。虎や狼も来る。
だから安心はできません。
法華経で言うなら本当の目的地はお悟りです。仏の知恵を得ること。
それは自我偈でもそう書いてある。
だけど人生は長く、悟りは遠い。
ワンステップ、ワンステップが必要。
本当に大事なことは「一挙にやってしまえ」はない。
そんなことできない。
密教の行法も百座までなら勢いでできるかもしれないが1000座となるとそんな心では挫折します。
100座でも一挙にやろうとするより、一座一座をかみしめながらやったほうがどれほどいいかわからない。
何でもやっつけ仕事のようにやることは何も残らない。
どんなもんだという自慢だけが残って、次も同じ過ちを犯す。
巡礼や入峯修行も同じ。数さえ行けばいいというものではない。
読経でも准胝独部法でも人より早く終わるのがいいわけじゃない。
そんなのはやり直し命令だ。
私が一洛叉したとき、途中で師匠から指を見せてみろと言われた、
指が傷んでない。本当に力入れて数珠を繰れば指は傷む。こんな風な空念誦では行にならないからダメと言われてやり直しになった。
西遊記のお話でも尊いお経を三蔵法師が天竺大雷音寺まで艱難辛苦していくから真理を得られる。
雲に乗って一飛びすれば10万里の孫悟空が楽々行ってもお釈迦様からお経はもらえないのだ。