密教には息災、敬愛、増益、調伏と四修法、六修法とある。
密教も仏教である以上、煩悩を去るという大眼目はある。
それなのに大きなお金を儲けたいとか、人の愛顧を得て出世したい、意中の人をゲットしたい、もっともっと長生きがしたい、あまつさえ会社で意地悪なあの上司を取り除きたい。
こういうのをいちいちに強く演じる。もっともっとと願う。
それは仏教の理想と真逆に執心の塊と化する。
こういうのを修行だと思っている人もいるようだ。だが、実を言うとただの欲を逞しくした執心でしかないと思う。
修行は修行だが一つ間違うと魔の修行になりかねない。
そうして祈願が叶えばますますその方向で行くのが人間というものの性分だ。
それをしないで済む方法。
必要なのはすでに万徳を供えている仏への帰依だ。
仏への信頼。
執心を捨てて楽になっていい。執心が強いままなのは帰依が真のレベルでのないからだ。アクセスがつながらない。
祈願祈祷と言ってもだいじなのはそこだ。
長い時間、滝に打たれて歯を食いしばって耐え、鬼のような形相で目を怒らして、聲を張り上げ殺気をはらんだ護摩をたくことは本当はいらないことだ。
ただそういうところへ行くのはそれがあったからこその気付きを得るということは言えよう。
在家出家を問わず最終的にそこに気づかないと仏教にはならないだろう。