金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

厳しさの話

一昨日弟子から「ここはもっと厳しいところだと思っていました。もっと厳しくてもいいのでは?」という感想を聞いた。

なぜ、厳しくないのか・・・?ま、十分すぎるほど厳しいと思っている人もあるだろうが、

この話は以前もしたが・・・

昔、ある高徳が小僧時代。寺から叡山学院に通っていた。

帰って来ると真っ先に師匠の部屋に挨拶にうかがい「ありがとうございます。ただいま帰りました。御用を御言い付けください。」と言っていたが。、いつも返事は「いや、ない」だった。

連日同じことの繰り返し

そんなこんなで過ごすある日、突然師が部屋に見えて「お前はもう帰れ‼”」と言われたそうです。

 

大いに驚き「なぜですか?!」

 

「何もせん奴などは措いておけない。」

 

「いつもご用を伺っておりますのに・・・」

 

「言わねば何もしようとしないものなどに修行のこころはない!」

 

「‼」

この一事でこの方はのちに大いに発奮して大修行者となり高徳の僧となられたという。

 

人の思いは様々だ。

「寺のなかで小僧がタバコなど吸うな!」といってら「厳しすぎます!」といった人もいる。

ちなみに厳しくというなら「それでは毎日朝早く寺に来て掃除ををせよ」と言ったら誰が来るのか?

まちがいなく誰も来やしない。そんなものだ。

わかりすぎるくらいわかっている。(笑)

その程度のこともできもしないものに一体何を厳しく指導できるのか私は問いたい。

信者でもする人はする。

 

だから厳しく命じることはない。

「できません」「あ、そうわかった」で終了。

わたしの修行時代は大井町まで毎日のように早朝通ったものだ。

師匠があまり来るので「お前さん、学校はちゃんと行っているのか?」ときかれたこともある。

 

だからやる気のあるものだけを育てる。

何も言われなければ来ないものは永遠にそのままだ。

「いつか呼ばれて何か授かる?」

そんなことは永遠にありえない。

そう持っている人がもしいるなら認識を変えて欲しい。

つまりそれがその人の限界なのだろうと解釈しているからだ。

私は是が非でも教えたいということではない。師

師匠は教師ではないからだ。

師匠というスタンスは技術学校の教官や教師ではないからそれでいいと思っている。

だから教えるに値しない人には教えない。

 

叱る気などない。できない人を叱って怒鳴って一人前になどにしようとしてもなにも意味はない。

 

しかも世間通用の礼儀や常識のようなことまで怒鳴って教えるのはこっちがしんど過ぎる。

そういう人間を私は一人前になどできない。

する気もない。

そういう人はやんわり「いやいや忙しいでしょう。大丈夫ですから、心配しなくてもイイですよ。」と丁寧に言っている。

心配すべきは寺ではなく自分の修行なんだけどね。

だから祭典にすら来ない。来たくないものは来なくて結構なのだ。

 

昔は厳しく怒鳴った。深夜東京から呼びつけて作業の不備を指摘してやり直しを命じたこともある。

そのせいかそのころの弟子は皆立派に一人だちしている。

だがこのやり方だと代わりに脱落するものも多い。

母が存命のころ「最近はお弟子さんを厳しく叱らないのだね_」というので

「お客さんの延長みたいなつもりで来ている人間なんか叱っても仕方ないでしょう。」といった憶えがある。

 

だから、今はできる人、この人は、というだけに厳しくする方針だ。

だが・・・みまわせば今はそういう人はなかなかいないので楽ですね。