金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

修行者の在り方は…


今は違うのでしょうが私が修行したころは小僧がけしからんと師匠は時には打つ、蹴る、罵る、が珍しくない。そういう指導もよくある時代でした。
ところが私の師匠はあんまりガミガミも言わない。手もほとんど上げない。因みに私は師にはぶたれたことありません。
でも…だからこそ、別な意味でとても怖い人でした。
 
20代のころ、小僧になり立ての私は「せっかく、思い切って仏道修行始めたんだから怠け者でダメな自分のままではいかん。なんとか少しでもよくしないとな~」と思っていた。そこで愚かな私は師匠にいったことがあるのです。
「もっと、いろいろご用をお言いつけください!もっと厳しくされていいのではないですか。」と弟子にあるまじきことをいうと・・・。
そうしたら師匠は苦笑いして私にこんな話をしてくれました。
 
比叡山のふもとの里坊にある小僧さんがいた。
その小僧さんは入門してまだ日も浅く、連日お師匠の寺から叡山学院という僧侶の養成機関に通わせてもらっていた。
 
それで学院から帰ると即座に師匠に挨拶に行き「お師匠、今帰りました。ご用はなにかございましょうか?」
「…ない。」
それで自室に戻り勉強する。
次の日も学院から帰りご挨拶に、「何か御用は。」
「ない。」でまた自室で勉強。
 
そうこうするうちある日、自室の障子戸がすっと開いて師匠が来られた。
「お前は帰れ!」という。
「え、どうして…です。」
「何もせぬ弟子などいらぬ。」
何もせぬ弟子?これには彼はいささか驚いた。
「お師匠!私はいつもご用がないですかとこちらよりお訊ねしておりますが?」
すると師匠は「そもそもなぜ訊ねるのだ。することを一々訊ねてあるといえばやる。ないと言えば何もしない。
そんなものが修行と言えるか。それは所詮自らは何もしようという気がない人間のいうことのだ。
修行者とはおのれの為にやるべきことを探してでも何かをしてこそはじめて修行なのだ。
言われてするだけのおのれの様な者は到底、修行する者とはいえぬ。」
とこういわれた。
 
青天の霹靂!
その小僧さんは以後心機一転して自ら、言われずともすべき作務をさがして励み、.人が拭いたという廊下も拭きして、ついに後には千日回峰行の「大行満大阿闍梨」にまでなられたという話です。

さらに、 この話の後、師匠は
「私が四六時中口やかましく言って、それでアンタが何かをやる癖がつけば、本当に必要なことはあアンタはわからずじまいだ。私がいなければ何をしていいのか。何をすべきなのかもわからないようになる。
それでは修行したとは私は思わない。だから自分で、自分の頭で考えるがいい。聞かれなくても考えれば自ずからわかるはずだ。」
と言われました。

生来怠け者の私自身がこの話を聞かされて、一転して満足な修行者に生まれ変わったとは到底いえませんが、それでも修行ということに対する考えだけはこのお話で大きく変わりました。
 
命令してやらされているだけのことをするだけでは本当の修行ではない。
だからこそ師匠はうるさくいいたてることをされないのだな…と愚かな私なりに悟りました。

普段の事すら満足でないのにその私がもっと厳しくと・・・いうのにはきっと内心、噴飯物、「私どうにもならぬ愚かな奴だ」と思われたことでしょう。
だから、それからの私にとって師匠はとても怖い存在になったのでした。
だまっていても見られている。
私がなにをするのか。あるいはしないのか。
何も言われないが、私のようなものがすることですから、きっといつも不足があるだろう。そうであるに違いないと思うようになりました。
     
そうしてここまできました。師匠だったら今の自分をどう思うかなというのはわが一門に共通する観念だと思う。

伝教大師は口の粗言なく、手に笞罰なしといわれたが、この言葉は児童教育のための大師の言葉という風に思われています。
しかし、それだけではなく実は眞實修行をこころざす求道者を養成するには、おそらくそんなものは無用なのだと思うのです。