金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

師を選ぶということ

師匠を選ぶことはなんの世界でも大変ですね。
たとえば中国武術の世界では三年かかって明師を探しなさいというようです。
それでそういう人に逢えなければ縁がないんだと思ってその道はあきらめろというのですね。


その点は私は全く師僧に恵まれていました。
祈願を志す私にとってはこれ以上なく最適の方でした。
今日あるのは全て師匠のおかげで私自身が今までしたことなどはチリ芥のようなものでしかないのです。
また、師匠以外にも多くの碩学や法友の薫陶を受けさせていただいたことは大変な幸運であったと思います。


時々すでに師匠のある方からこちらでも弟子にしてくれという話がありますが、それはできない相談です。
先ず仁義にもとります。 密教では越三昧耶の罪です。
先の師匠に大変失礼な話です。
また、そのような失礼なことをしようという人を弟子にはできません。
今の師匠がどうしてもダメというなら乗り換えないで、まずやめてそれから訪ねてこいということです。安全株買いながら乗り換えるなんて虫のいいことが通る世界ではないのです。
転師ということはまま、あるでしょうが筋目の通らないことはなりません。


いままでそういう例を多く見てきましたが、そういう人は本当の師匠を得られず師弟関係も理解できないで多くが必ず失敗していきます。
私の先輩にもそういう人がいました。その人の場合は結局自分が勉強したいから便宜上、師僧を選んでいるので。師に対する尊敬などなかったんですね。小僧の分際で年喰っているから自分の方が上だと思っていたんだね。振舞も横暴できわめて無礼でした。


勉強するのは大事だけど、師匠の方がより大事なんですね。仏法では。
だから師匠がまだ教えないということをよそへ行って習ったり聞いたりするのはルール違反なのです。
 
私が最近まで預かった人がいたけどこの人にもすでに師匠がありました。
だけどしたい勉強ができないんでうちに来た人です。
勉強は熱心でした。その人間の師僧もわざわざあいさつに見えました。
でもこれはやはりやめるべきだったと思う。
結局最後にはおかしなことをしでかして失敗した。
しまいに師僧の言うことも私の言うこともきかない状態になりました。
これは私の不覚でもありました。私の罪ですね。
師匠ということがわからない行者ができてしまったんだね。
ある意味当人も気の毒です。
そういうものにはロクなものがいない。


だから修行中で師匠のある人はもう預からない。講員にも一切しないことにしたんです。ましてや弟子になどはいうまでもないことです。
仏教は師僧から学ぶものです。
何が悲しくて自分の師匠があるのによその宗派や寺に来て勉強することなどありましょうか。
そもそもそれがおかしい。
まあ一人前になって住職したりすれば伝法とか見聞を広めたり習いに見えるのはいいと思うけど。
そうで無い初心者や小僧のうちに勝手にウロチョロする人は結局駄目です。

欲しいものはあるんだろうけどね。
まず何よりも師匠を大事にする。
ここが最初の関門なのです。
師匠が「ダメだ」ということはしては駄目なんです。
それが仏法の掟。
だから「本当にこちらで学びたいんです!」といっても自分の希望に熱心なだけであって。修行を理解している訳じゃないんですね。
そういう人は。
目移りすればまたよそに行くでしょう。
終いにはどこでも本当には相手されなくなるのです。
ワタリガラスのような人に本気で大事なこと教える師匠はないですから。

最近はそういうトンチンカンな人がいますね。

これは仏法の話じゃないけど私も師匠を変えたことはありました。

昔、学生のころ、初めて太極拳というものがあるのを知りました。それを知るほどにどうしてもその先生に習いにいきたくて訪ねて行った。
40年も前ですから当時はまだ数えるほどしか、太極拳なんてやっている人がなかった時代です。
その時は高校生のころから古流の柔術をやっていたんですね。
そうしたら「アンタ、今やっていることがあるならまずそれやんなさい。全部教わってからならきていいけど…。師匠のは全部吸収しなさい。でなきゃ今来ても踊りみたいなもんしか教えないよ。」と言われました。でもどうしても習いたかった。若いうちにやらないとそういうのは身につかないと勝手に思い込んでいたからですが。
それで前の師匠に御暇を頂いて「向こうの師匠にはすでにお暇を頂いてまいりました。踊りでいいからどうか教えてください。」と再度、頭下げに行って「それほどいうならよかろう」と許してもらった。
そういう経験がある。
結果はこの先生と出会ってから20年以上の付き合いとなり、むしろ武術以外で大きな意味がありました。
だけど結局は才能がないので武術の方は全くやったとは言えないようなレベルで終わりました。

なんのことはない。
師匠は良かったんだけど学ぶ私がダメなんですね。
そういう勘違いはよくある。
だから何にしても師匠を替えする前にまず師匠ではなく、本当は自分がダメなんじゃないか?とよくよく考えてみてからでもいいのではないかと思います。
前にも紹介しましたがチベット仏教の「ミラレパ尊者」の伝記を読めば師と弟子はいかなるものかがよくわかると思います。ご参考まで。