開眼のお話
仏像開眼のお依頼
うちは講員さんしかしない。
それが電話でどうしてもやってほしいという依頼・なんのお仏像かと聞いたら結構一般の家に置くのには過ぎたものでした。
「よそに聞いてみたら・・・どうしてうちなんですか?」といったら
「いいにくいんですが・・・実は私は得度だけしていまして、師匠に頼めばやってくれるけど・・・。」
「けど、なんです?」
「お高いんです」
「それでうちですか!?」
呆れたもんだ。
「あなたねえ、それ違うでしょう。
信頼する師匠に開眼してもらわないでどうするんです?
安い方がいいからうちに頼むわけですか?
ふざけたことも大概にいいなさい。
まっぴらごめんだ。どうしてもというならその師匠の倍額の開眼料とります。」といった。
でもこの人はなぜそんなに怒られるのかぴんと来なかったようだ。
やれやれ・・・この人の師匠も気の毒にね。ものの道理もわきまえないようなものを弟子にしてどうするんだろうか?
師匠はだれでもいいわけじゃない。自分がこの人と選んだ人でないなら得度はすべきではない。
すべてをその師匠から学ぶのだから。
この人がどういう動機で得度したのかは知らない。
だがどうあれ、僧籍を取得し修行できれば師は誰でもよいという考えでは、すでにその人の修行は出だしで死んでいる。
中国武術の世界で武術を志す人に言われる言葉に「三年かかっても先ず「明師」(術に明るく、尊敬・信頼に値する人物)を探せ」と言う。
そして「三年費やしても明師が見つからなければそれで縁なきものとあきらめる」という教えがある。
これは密教に関しては同じだと思う。
誰もがやるべきものではない。
方々の寺院を数々渡りあるって来たような過去を持つ人物は必ず多くの問題を秘めている。
初めから一本がのぞましい。