金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

忍辱波羅蜜やいずこ?

昔というか私の小僧時代はどこの宗派でもよく師匠や先輩に殴られるということがありました。
加行中などは口答えなどすれば襟を掴んで仰向けに台から引きずり降ろされたという人もいた。怒鳴るのは当たり前で打つとか蹴るはまあ、普通でした。
平均一日に一人五発は殴られているという寺もあった。最近はさすがにそういうのはあまりないと思います。
私は昔はかなりきつい方でした。(今でもかな?)殴るというのはないけど扇子でたたくとか、生意気な弟子には頭からお茶かけたこともあります。
 
でもある時、ミヤンマーの上座部のお坊さんにお会いして「ああ、それは違う。恥ずかしいことだ。」と思うようになった。
別に言葉もわからないけど一見して仏法に対する態度が違うのです。
上座部と大乗では解脱の目的は違うけど修行というものは同じ極めて重い存在です。
それが言葉もなくて伝わってくるお方でした。まさに阿羅漢だね。

大声出して怒鳴るのも良くないですね。一々大声出すくらいならもう「あなたは修行にふさわしくないから」と静かにやめてもらう方がいいと思うようになった。第一怒鳴るのくたびれるしね。
深く考えれば本当に弟子を思うなら殴ってでも良くするというのもあるだろうけど、それには強固な「信頼関係」が前提。
𠮟っても信頼関係がないなら単なるお小言でおわり。
ましてや、たたかれて弟子が師匠を裁判に訴えるようじゃもうおしまいです。もう弟子も師匠もそこにはいないんだね。
昔の修行にはそういう信頼と修行への気迫があった。
禅宗なんか棒と喝は宗門第一のごちそうと言われたくらいだけど今はどうしているのやら…。
まあ、でも殴るのは良くないね。殴るほどの信頼関係なんて今のお寺の中にはもうめったないわけですから。
殴る方も良くしようというよりただ頭来て殴るだけ。
指導じゃない。感情の問題。もっと酷いといじめ。
訴えられても仕方ないかも。
大体、単に厳しく言う域を超えて本心を失うほどの「激怒」というのは実は背後に恐怖心がある。コイツ俺に逆らうのかという恐怖。会社の上司でもそう。
それが証拠にわなわな震える。
恐怖は人を最も凶暴にさせます。
激怒型の人は単的に人を黙らせる手段としてキレるわけです。
キレるという言葉には禁忌がない。いっていけないこともなければ、していけないこともない。だから禁を破る。キレるということの意味。
なんでもありだから切れるという。
会社でも怒って机ひっくり返したり、もの投げて窓ガラス割ったり。
全面開放だから気持ちいい。自己解放の極致。
で、相手は黙る。
便利だからこれ癖になります。癖に成ったら最後治すのは困難です。
ゲームに出てくる必殺技みたいのだから。
一発で敵全滅。いよいよ危なくなるとつかう。使うことが前提で始めだけこらえる設定になってしまう。
でもこれやると…もう話は通じないよね。あの人は。という分類になる。極端な話、むちゃくちゃ怒鳴ったり暴れたりすればとりあえず他人は言うこときくけど、もうマトモな人とは思わない。同じこと。
聞いたとこでは怒って師匠にもの投げつけて破門になった人もいます。当たり前だわな。
こうなると本当には誰も相手にしない。
こんなこと言うとこの人はまたひどく怒りゃしないか?だけが気にされる。
本人は人から怖がられている存在と思って自慢にすら思うのけど、究極のバカだね。厄介な人物として煙たがられているだけです。
そんな人に本当の話はもう誰も申しません。
可なり世間的にはステージの高いエライお坊さんでもそういう人結構いますけどね。
六波羅蜜の「忍辱」ってどこ行ったの?
失礼ながらたとえどんな修行をしても、どれだけ学問があろうと到底本当に偉い方とは思えないですね。
日本の寺院もそこをもう脱却しないといけないと思うんです。
学生の体育会じゃないんだしね。
法華経にも釈尊はついに瞋り給わずとある。