金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

密教と上座部仏教

お祭り直前でしたが、かねて伊矢野先生からお誘いがあったので、今日はある真言宗碩学から密教経典の講義を頂きました。

そんななかで「大乗(顕教)は仏を距離ある存在にしすぎる。そこに限っていうならこの密教経典の考えはむしろ上座部に近いかもしれない。
難しいようでも実はこういうように修行すればいいということが説かれているだけの話なので・・・」とのお話。
これは面白いね。
私も密教はある意味、むしろ上座部に近いと性格もあると思っていましたので。
大乗というけど。ゴールが三阿僧祇劫もの歴劫修行の果てなら上座部の在俗信者も何時かは転生して修行僧となり阿羅漢になるという設定とそう変わりないように思うのですが・・・
密教は明らかに特殊化された世界ですから密教が大乗であるというなら、そこは万人に門戸を開いていないといけない。しかしながら人を選び、機根を選ぶなら実際にはそうはいきません。
逆に門戸を開いたとして第一、成仏というような大事を俗事の傍らできると考えられるのかという根本的疑問もある。

となるとその前に密教が万人にあたえられるものは?
「天台学概論」の著者で天台宗碩学福田堯穎先生は「天台法門が万人にあたえられるもの」は圓、密、禅、戒(法華経密教、止観、大乗戒)のうちの大乗戒であるとしていますが、まあ、天台宗としてはそうなんでしょう。

真言宗ではどうなるのだろうか。恵果阿闍梨は「密教は早い乗り物で悟りのゴールに行くようなものだ。悟るのは難しくない。密教に出会うのが難しいのだ。」といわれたといいます。
そうなると真言宗でも一般在俗は歴劫修行なんでしょうか。

不空三蔵には在俗の弟子500人いたといいますがその人たちは当時、どんな修行をしていたのか知りたいですね。

そこの問題は今度お尋ねしてみたい。
今日は善き学びの一日でした。

明日は手伝いの人は欠席とのこと。もうひと頑張りしなきゃ。(笑)