金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

何度でも聞けると思ってはいけない

ちょっとわからないとこ聞いていいですか?

今の修行者は平気でそういうね。

酷いのは電話で聞いてくる。

私は上座の弟子には聞きたければ教えてやるから来いとはいった。

電話などで法をきくものではないというのが常識だ。

 

昔はうかうかそんなこと聞いたら「教えなかったか?教えたはずだ。」と言われた。

教わっていないことまで下手すると「教えただろ!」と叱られることもあった。

でもそれは本当なのだ。

わざわざ手取り足取りなどしない。

ぼやぼや見ているのでは何も身につかないのが技の道の修行だ。

法だけでなく、料理だろうが、研ぎ師、大工、陶物師、仕立てに紙漉き。技の世界はなんでも昔はそうだ。お客様あつかいのお教室などない。今でもホンモノは実地修行だろう。教室などですべて終わりだと思っているプロなどいない。

私の師匠はこの道も学び方はそうした職人と同じことだといっていた。

 

これは宗教の話ではないが、わたしの拳法の先生が台湾で武術修行した頃のこと。

老師に型をやって見せていただき、二度目の時に「あ、先生待ってください。」

「なんですか?」

「ちょっと紙と鉛筆持ってきますので。」

「なんのために?」

「憶えるために要点を書くんです。」

「あなたね、本当に憶える気持ちあるの人は書かないよ。」といわれたそうだ。

 

今の人は憶えるどころか、わからないなら何度でも聞くよね。

それが権利だと思っている。あたりまえだと思っている。

そのうえ「これをやってみろ」と言えば「いえ、また今度にします。」とかいう。

黙って「そうですか。じゃあ。」と言っているが、「わたしは教えるに値しないバカです」と自分で言っているようなものだ。

そんなことで本当の学びなどない。

私の師匠など断れば、二度とはやってみろとは言わなかった。

また今度などといえばそれでもう終わり。二度はない。

「教えるの待っていても無駄だよ。教えることなど何もないよ。術は皆盗んで取るんだ。」ともいわれた。

だから、教えないことでも「いままで何度もみているだろう。できて当たり前だ。やってみろ」と言われた。

それで「できません」といえばもうコイツは法の器ではないとみなされた。

たとえば五体加持などは私はそうして憶えたものです。

必死さが違う。

口開けて教えてもらうの待っているだけの者。いつでも聞けば教えてもらえるのだなどと思う者などに何ほどのことができようか。