自分一人で行をしているなら何をしようとすべては自分に返ってくるのだからそれでいい。
だが師匠ができたらそれは許されない。
勝手にどんどんやるなら師匠はいらない。
自分は行もできる、霊感もある。優れた人間だ。だけどいまだ師はない。
だからしかるべき宗派の師につけば格好がつくなどというのは真にふざけた話で実に放り出すに値する。
行とはそういう土台にプラスαすることではない。
むしろ自分が自己流で今までしてきたことを捨てよと言われて、捨てられないものは師につくべき人間でない。
たとえ破門や追放にしないまでもそのようなものに真伝は決して伝えないというのが昔からのやり方だ。
そういう人は形の上では認めてやれば喜ぶ。実質、弟子ではなく客分の扱いだ。
だが、そういう扱いをされて喜ぶものはおめでたい奴だけだ。
お客様扱いであるから真伝は教えない。
お客様に物を教えるなどおこまがしいからね。
いうことを聞かないのがおもしろくないからではない。
なぜならそのようものは授けたものを如法に保つことは先ず100パーセントしないからだ。これによって法は滅ぶ。
そういう者はすぐに自分の浅い知恵でろくに修行を練ることもせず工夫することばかりを考える。
利口そうにふるまうがサルにも劣る愚か者だ。
それが見抜けないなら師たる器ではない。
どんな秘法もすべてが自分を飾る飾りでしかない。
自分は○○法を知っていると言うだけの話だ。
どこにもそういう人間はいる。
そんなものでホントに勝負ができると思うなら臍が茶を沸かす。
何の道でも最期まで耳を傾け続けたものだけが真の器である。
「不次第をなせば魔衆便りを得べし」と古来の伝書に言う。