わが師の教えは聖天信仰するものは
「怒らず、貪らず、愚痴を言わず、素直、正直」が大事だと教えられました。五つの誓いです。
破れば必ずお咎めがあるので、その場合は口に出して聖天様にお詫び申し上げないと、お叱りはやまないと教えられました。
そして実際その通りでした。
お咎めも、お許しも。
師匠は聖天様の礼拝次第には十善戒がないから、あえてこうしたといいます。
「五つだけだから守れるでしょう?」と師匠はいっていたけど今になって思うとこの言葉がとても、とても重い。
拙寺では講員さんには「在家の五戒」を授けておりますが、「五つの誓い」のほうがわかりやすく実際的ではあります。
不殺生、不偸盗はこの五つの誓いにはないのですがまあ、殺人や盗みは聖天信仰以前に犯罪ですからね。
拙寺の場合、ムシみたいなものでも命あるものは簡単には殺してほしくない。大事にしてほしいので「不殺生」は言っています。
五つの誓いでいうなら不殺生は「怒らない」、不偸盗、不邪淫は「貪らない」、不妄語は「正直」、不邪見は多分、仏の教えを傾聴する「素直」さや「愚痴を言わぬ」にあたる。
特にこの「素直」という徳目が大事ですね。
この誓いは「柔和質直者、即皆見我身」という法華経の寿量品からでているそうです。
「柔和質直なるものは即ちみな仏を見ん」ですね。
「柔和」が素直で「質直」が正直ですね。
法華経を修行する心でもっとも大切なのは、此れと「不惜身命」だといわれた。
最重要な誓いとしてこれを強調していたけど本当にそう思う。
素直は諸法無我に通じる第一歩。
たとえ善人でも頑固な人間は仏法は学び難いです。
なにかと我が説を立てたがる。
自分なりの解釈をしたがるんですね。
「私が思うのにはこれこれこうだ」という講釈が始まる。
「こういう考えであっているかどうか、聞いてください」というけど「いいえ、そこは少々違います」というと怪訝な顔するから本当はそうではないのですね。
さんざん人さまにも説教がましく同じこと言いまわってから、最後に自信もって質問するので結局そういうザマになるんでしょう。
「そうです!」という答えとか「いや実によく理解しています。」という言葉しか聞きたくないんですね。
本当は。
こういう人は「素直」じゃない方向に行かざるを得ない。
素直だと軌道修正も楽なんだけど一々ガチンコしないと納得しない。
相手して疲れますね。
こういう人はいかに善良で努力家でも仏道修行は無理です。
しかも、器用で何でもそこそこできるという人に多い。自分で考える力もあり優れてはいるけど、なかなか理解はしてくれませんね。妥協したり、負けるようで嫌なんだね。
しかも小利口だから師匠をなめるんだね。
そんなこと思うなんて本当はバカだし、あたまから仏教学ぶ態度じゃないと思うんですけど…。
修行者は無知であるという自覚があり、素直である方はるかに良い。
法然さまではないが「愚者の自覚」は大事です。
もっとすごいのは信徒さんの中には我が師匠に反発して「それは違う」と正面から異を唱えるような人もいました。
どっちが指導しているのかわかりません。
拙寺の場合は「ああ、そうですか。考えが違うと言うのならそれもしょうがないね。あんたはあんたやし。押しつけはしないので、じゃあうちはもうやめますかね?」ということでやめて頂くので、そういう人は残りませんけど。