「請仏住世」とは常に仏が世にましますことを願うことです。
しかし今の世の中は仏教では「無仏世界」といいます。
つまり仏陀がお隠れになっている世の中。
お釈迦様は二千五百年前に亡くなっています。
仏教神話では「弥勒菩薩」が兜率天から地上にお出になり、次の仏陀になる56億7千万年ののちまで仏はいない。
仏が世の中にいないことは仏教徒として嘆くべきことですが、…でも法華経ではお釈迦様がお隠れになったことには大きな意味があるといいます。
皆が常に仏がいるとすれば修行を怠るというのです。
それが有名な「如来寿量品」に出ている。
だから仏が亡くなることに意味がある。
でも・・・私は法華経で言う「一大事の因縁」って何だろうと思い、少年時代、法華経の寿量品を読んで「なんてばかばかしいお経だろう。人なら死ぬに決まっているのに・・・それを皆のために隠れるのだなんて」
こんなものがどうして有り難いのか。バカじゃなかろうか?と思っていました。
でもそれは逆なのですね。
死に意味を持たせている。
お釈迦様だってもちろんいつまでも死なないとかいう存在ではない。
でも本当の仏陀は「近しと言えども、しかも見ざらしむ」とあるように。いつもいる。
見えなくてもすぐそばにいる。
そんな仏に会えるのは「柔和質直者」だという。
こころ柔和で正直なものだけが「即皆見我身」で、仏と出会える。
話は少々変わるようですが聖天信仰のお経本には本来あるべき「十善戒」は唱えない。何故なら十善戒は以下の様ですからです。
『十地経』(『華厳経』十地品)第二「菩薩住離垢地」で勧められる、菩薩としてなすべき十の良いことをすることの戒め。
- 身業
- 不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を傷つけ殺さない。
- 不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
- 不邪淫(ふじゃいん) 不倫など道徳に外れた性関係を持たない。
- 口業
- 不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
- 不綺語(ふきご) 無用に飾ったり誇張した言葉を話さない。
- 不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉や人の悪口を言わない。
- 不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるような不実なことを言わない。
- 意業
- 不慳貪(ふけんどん) 吝嗇や強欲は戒める。
- 不瞋恚(ふしんに) 憎しみに支配されない。
- 不邪見(ふじゃけん) 因果律を否定しない。
聖天信仰の人はきわめて強欲で財宝に大きな執着があったり、強いライバル心を以て手段を択ばずに相手を出し抜き陥れるような競合の祈願も寄せられます。
不倫をしている人もいれば人の女房や檀那を奪いたい人もいる。
「だからあえて十善戒を唱えて仏様を欺くことだけはしないようそうなっている。」
師匠はそう聞いていたそうです。
「でもそれじゃ仏教じゃない!」
だから十善戒は言わないけど、1 貪らない、2 怒らない、3 愚痴を言わない。
4 素直で 5正直な人になれ という五つの約束をさせてはじめて聖天信仰をさせた。
「戒がないのは教えがないのとおんなじだ」といわれた。
私もそう思うので、うちでは「五戒」をお授けしています。
この五戒は在家仏教徒の守るべき最低限です。これを拒否するような方はご祈祷はできないという私の約束事です。
実は先の師匠の提言した五つの約束の素直で正直な人というのが「柔和質直者」なんです。
そういう人だけが仏に会える。
逆に言えばそういう人だけが周囲に仏を見つけられるんでしょう。
それが「即皆見我身」ということ。
華厳経で言う「請仏住世」とは法華経でいうなら「柔和質直者」であれという意味なのだと思います。