師匠が大福生寺に赴任したとき、礼拝次第に戒の項目がないのをいぶかしく思ったという。
面白いことにおしなべて聖天礼拝次第に十善戒などはない。
聖天信仰は恥もなく欲願むきだしの極みのようなことさえ祈る人もある。
十善戒が守れるくらいなら聖天様の祈願に御用はないということだろうか。
だがそれでは仏教にならない。
それで五つの約束というのを作った。
貪らない
怒らない
愚痴を言わない
素直に
正直に
という五つである。
貪瞋痴を戒めるほか、素直に正直にというのは不邪見・不妄語にも通じるが、私の師匠はそれについて独自の見解を持っていた。
師匠は悟りとはザックリ「素直なこと」と考えていた。
「柔和質直者 即皆見我身」という法華経寿量品の偈文から出ているという。
柔和であり素直で正直なもののみが仏にまみえる。
貪瞋痴を戒めた結果が「柔和」であり、「質直」は素直、正直に当たる。
これをまず誰もが行える法華経修行の第一に置いたのだろう。
天台ではこの世では釈尊のような究極の悟りはないと考える。
この世は到来の世で正定聚に入るための準備の世界なのだ。
それにはこれが大事だという。
そんな難しいことはわからないで聖天様のご加護を頂きたいので皆まずこれを心に置いた。それが師匠の教えてくれた聖天信仰だった。
私も勿論。
これを守らないとご加護にもれてしまう。
でも今思えばこれを守ること自体が心を守ること。御加護なのだと思う。
「心を防ぎ 科を離れること三毒にすぎず」だ。