仏菩薩は仏性の人格化であるからそこにアクセスすれば間違いなく仏の誓願にいいきつく。
天部はそれに比べれば仏性を宿す存在とはいうものの衆生であり我々の側の存在だ。
天部の祈りはその仏性にアクセスするように祈らなければいけない。
それにはこちらも仏性で対峙しないと導き出せえない。
法華経でいうなら方便品の「止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。」というところに当たるだろうと思う。
天部修法の難しさや初行の行者にはこれを許さない理由はこのあたりにある。
一般ご信徒の信仰においてもあまりにはげしい貪瞋痴に任せた祈りは、元来が驕慢の性格を持ち。とりわけ魔族の後身である天部の属性の内からは魔性を引き出して厳しい障礙を受ける可能性もある。
ここは密教の加持の原理と同じだ。
仏性で対峙せよと言われても、。悟りの片鱗も知らぬ身には至って難しいと思う人もあろうが、心して天部信仰においては本地の信仰をしっかり持ち、仏戒をたもつべき所以である。
それが仏性で対峙することに替わることだと思う。