泥中蓮華
泥の中の蓮華、そういう言葉がある。
蓮華は汚く見える泥な沼のなかから伸びて見事な花を咲かせる。
「梅花藻」のような小さい特殊な花のほかは渓流に咲く花はない。
汚い世俗の泥の中。そこからこそ生まれる花、それが菩薩という花であるという。
それは大乗仏教の精華「法華経」の境地にもなぞらえる。
私たちは日常さまざまなことに悩まされる。
人間関係や解決すべき課題、何とかしないといけない仕事や家庭問題、健康不安、
そういう泥のまっただなかにある。
「ああ~もう何が何だかわからない!もうダメだあ」などという前に・・・その泥の中に屹立として開く清浄の蓮を想ってほしい。
周りで何が起ころうと蓮の花の中は清浄さで満ちている。
そういうところにまずたちかえらないといけない。
そういうところを持たねばいけない。心の沼のなかに。
静かで乱されない心の一画にこそそれはある。
必ずある。
禅話にある話、小僧が師家の真似をしてひとさし本指を立てて見せた。
師匠がいつもそうして信者に見せて何事かを教えていたからだ。
それで面白がって師匠のまねをした・真似したら師匠は小僧をとらえ、たてていた「ひとさし指」を切った。
泣きわめく小僧を師匠は呼び止めて一本指を立てて見せた。
ただ焦り、慌て、怒り、悶える。もう暴風雨のごとくに荒れすさぶ。
それをそのただなかに伸びる静かな蓮の中に安らかに座ってじっと見つめる。
おのれを見据える。
そこから新たに学ぶ。
その場所こそ泥中蓮華。
他に煩悩の泥をかぶらぬ場所など浮世にはどこにもない。
リゾートに行こうが自室に籠ろうが嵐はやまない。
一歩娑婆に出れば誰も泥だらけだ。