密教は象徴の宗教と言われています。
六波羅蜜に相当するお供物がある。六波羅蜜とは大乗菩薩の修行の眼目です。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定。般若の六つ。
つまり密教の考えでは様々なお供物は六波羅蜜の象徴なんですね。
だから修法の中で一つ一つそれを献じていく作法がある。
例えば風雪に耐えて咲くお花は「忍辱波羅蜜」の象徴。
忍辱とは仏道のために苦難や辱めをよくよく耐え忍ぶことです。
じゃあお花を上げたら忍辱の修行になるの?といえばどうだろう。
怒りっぽい人がお花上げたら怒らなくなるのだろうか。
イヤイヤそんなことがあるわけがない。
つまりはお花を上げて忍辱を本尊にお誓いするということなんだろうか?
たぶんそうだろう・・・
そういう風に師匠に尋ねたら答えは全く違っていた。
「いいや、違う。これがそのまま忍辱なのだ。」とハッキリ言われた。
?! これはなかなか理解できがたいことだった。
じゃあ、お花を上げていったらやはり忍辱波羅蜜が身につくのか?
そんあことって・・・
まあ,師にそんなことまで言えないから黙っていたが・・・
長い事、この疑問をそのまま持ちながら修法していたら
ある日、霊狐さんが「それは本有の徳のことだ。お前の中に仏がいるというのが密教ではないのか。その仏にはもう六波羅蜜は成就しているだろうよ。その仏が仏として本尊を供養するのだろうが。」
「仏仏加持?」
「そうだ。全ての修法は仏仏加持であろう。当たり前だろう。今頃何を言っているんだ。」と笑われた。