聖天さんを怒らしたまま、不義理したままほかの御祈祷してもすべて封じられる。
不動明王も十一面観音も聖天様が敵しかねる強大な力がありますがそんな人の祈りが届かないのが曼荼羅世界。摩利支天や如意輪尊観音にも毘那夜伽降伏の本誓があるが同じことだ。
何尊を拝もうが背後にはこの曼荼羅の世界がある。そこでは諸尊は一つだ。
それが密教の信仰。
分かりやすく言えば胎蔵曼荼羅だ。
最外院に聖天も荼枳尼も諸宿曜も竜王もいるが、それは大日如来はじめ中台の九尊と等しく同じ曼荼羅のメンバーだということだ。
一尊を通じて曼荼羅を拝む。実は諸尊信仰であって諸尊信仰ではない。
だから聖天信仰失敗した人は懺悔が先。
だがほとんどの場合、聖天様の罰は軽減できてもまぬかれることはありえない。
そこが迂闊に聖天様に近づいてはいけない理由だ。
そのままは受け入れてもらいたいという試みは無駄だ。
ほかの仏さまでも同じ。
霊を怒らしたり、龍や天狗のような実類の精霊を怒らすのとはその辺は全く違う。
手紙のあて名は違っても届く先は同じなのだ。
道理を破っておいて聖天様に助けを求めても答えはこない。
道理をたがえたまま、より強い仏や神に頼めば解決すると思うのは浅はかな極みだ。
国法を犯しておいてと都道府県の警察の逮捕をまぬかれるのに警察本庁に頼りに行くのと変わらない。
時々、密教の修法で神仏をなんか怪獣やロボットを操って戦わせるみたいにできると考えているアホがいるのは呆れます。
道理を戻さない限り祟りは続く。広い意味ではそれが必要だから解決はない。
解決は真摯なお詫び以外にない。