毘沙門天王功徳経には毘沙門天王をして
「我は此より北方 七万八千里を過ぎて 表あり、名ずけて普光という、 城あり名ずけて吠室羅摩那郭大城という、八十億那由陀の大福聚あり、 我毎日三時に 此福を焼く。若し人ありて我が福を得んと欲せば、 五戒を持ち、三帰して 無上菩提を願求せば決定して施与して 一切於毘沙門の福を成就することを得ん。願ふ所は五種あるべし。 一は 父母孝養の為、 二は 功徳善根の為、三は 国土豊饒の為、四は 一切衆生の為、五は 無上菩提の為に願ふべし。若し人ありて此の五種の心を除いてねがうとも福を得るべからず。」と言わしめています。
毘沙門天は日に三度も有り余る宝を焼き捨てるほどの福の神です。
でもこれを頂けるのは不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不邪見の人で仏法僧に帰依し信仰がないといけない。
さらに特に福を頂けるのは 父母を孝養する 功徳を積む 国を豊かにする 人々や生き物をいつくしむ 仏法の真理を求める
と言う心がないといけない。
要するに毘沙門様の福を願うのは善き心の人でないといけないという。
もともと密教では我々は曼荼羅と一つですから掘り下げていけば毘沙門天も我がうちにおいでになる。
私たちのうちに福の神はいていつも財宝を上げたがっている。
でも自分に後ろめたいところがあってはそれは頂けない。
こころの奥の本当の自分はウソをつかない。
善き人でも貧乏で難儀が絶えないのはその人の心の中では善き人ではないからです。
私は富むに値しないと思っている。自分を常に否定している。
そういう人です。
それは善人ではない。罪人です。
「私は善い人間です。ですから福をください!」
それでいいのです。
でも善き人とは何か。
何の罪も間違いもない人というのはどこにもいません。
もしも、私は悪いことなんかはなにひとつしたことはない、人に迷惑かけたこともただの一度もないというなら・・・そういう人は仏教でいう善き人ではない。
ただの無自覚の懺悔がない人です。
では懺悔すべきことがありながら善人であるのは矛盾ですか?
ここが大事です。
そうではない。
善き人とはよくありたいと願う人です。
ベクトルがどちらに向いているか。それだけです。
たとえ刑罰を受けたような大きな過ちがあってもこれよりは切に善き人であらんと願う志があればただちに毘沙門様は必ずご納受なさいます。
逆に福祉善行に励んでもいままでずいぶんいいことしてきたからもういいだろう。これよりは勝手放題にさせてもらいたいと言うのは毘沙門様からは善き人とはみなされません。
毘沙門天はどの人にどういう福を授ければ本人も周囲もいかされるかをはかって福をくださるのです。
善き人であること自体を常に喜び、そうありたいと願うものこそ真の善き人です。