金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

社会をサンガとして

よく言われるように人間と言うのは人の間と書く。

人と人の関係があってこそ人間。

絶海の孤島や極地にまったく一人で住んでいてはやはり人間らしい生き方はできない。

例えばタイムマシンにのって中生代亜白亜紀にいって一人だけで豪邸に住み、美味いものを食べ何も不自由がなかったにしても一個の生き物以上の意味はない。

逆に豪邸もスーパーカーも超性能コンピューターも扱う人間がいないならないのと同じだ。

人が人間として生きていくのには人が必要だ。社会が必要だ。絶対的に。

だから人を傷つけるのは駄目だ。社会をきずつけるのもダメだ。

外の生き物を傷つけてもそれが人や社会を傷つけることになるなら駄目でしょう。

例えば犬や猫を虐待する人は愛の心のない人。

愛の心のない人は危険な人であって社会を不安定にする。

たとえば魚を獲る人も生き物を殺す人だが、かならずしも人間としての愛のこころがないわけではない。むしろおいしい魚介類を提供したい愛の人かもしれない。

もちろんあくまで人間にとってだが。

殺生ではあるが殺生せずに生きられないのが生き物だ。

だから殺して当たり前ではなく祈りがいる。供養がいる。

 

人間の罪と言うのはそういうことでしょう。

人嫌いなどと言ってもそれがうまくできないだけのことだ。

生き物の構造上全くの人嫌いはあり得ない。そういう風にできている。

例えば「引きこもり」は社会が機能しているから可能なのだ。

社会が機能していないなら引きこもりはできない。

 

人ともに生きる。

大都会ではかえって個々の顔は不鮮明で社会の機能だけで生活できてしまうが、もっと人を意識しましょう。

意識して人と共に生きる。

仏教もそこは外していない。

仏教は人跡未踏のヒマラヤで瞑想三昧で一生すごせとはいわない。

そんなところに人間としての意味はない。

中世代白亜紀にいって修行するのと変わらない。

上座部仏教にはサンガがある。それもひとつの社会だ。

大乗仏教は世間も出世間もふくめ社会をそのままサンガとして生きる仏教だ。