金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

大祓いの心


最近因縁について信者さんからよく聞かれます。
善因善果、悪因悪果というものですがより突っ込んでいいますと「三世両重の因果」と言って因から縁によって生まれた果が又次の因となります。
悪い人生の因は前世にあるなどという考えもそうで、その結果である今の人生が又次の人生の展開の因ともなります。
このように仏教では因果論を言いますが、実はこれは絶対のテーゼではない。
因果もまた空なのだと言います。
つまりこうした原因論ラッキョウの皮をむくようなもので、しまいには全て誰であっても、根本無明というものに行きつくのです。
ここまでくれば罪があるもないもない。みな平等です。
だから因果論は現象の展開する仕組みに過ぎない。
因果を超えるということはこの根本無明を退けて悟りを得る以外ないのです。
般若思想は諸法の因縁生を解きますが、それは諸法の相であり大事なのはそこより因縁の奥にある空性を体得することですね。

空性へのアプローチは難しいようですが、罪のようなものを実態として、罪をあきらかな「存在」として考えているかぎりはそうなります。
罪は無明の表れで積極的にあるわけではない。
その証拠に、もし罪に実態があるならそれを許そうが許さまいがそれは無くなりはしない。
分かりますよね。目の前に大木があれば認めようが認めまいがあるものはある。
しかしそれを懺悔して受けいれられれば無くなる。だからそういうものではないのです。
人生に失敗しても許されれば前に進める。
もうそれだけで、そこに罪というのは確固とした実態ではないのだとわかります。
動物に基本的には罪の概念はない。だから許しもない。
人間には社会があるので罪の概念がある。
ある密教経典にはなんと「世の中の一切衆生を殺害しても罪にならない」というような極めて恐ろしいことが書いてあります。
や生き物を殺すことは我々が罪を知る「人間」という存在だからこそ罪という扱いなんですね。
ここは誤解するとオウム真理教のようなえらいことになりますが、ここは罪の正体が実態ではない事が、過激ではあるけどそういう言葉で表現されているのだと思います。

罪の意識とは罪自体に意味があるのではなく、社会とその構成員である我々を守るためにあるのですね。仮に設定されたもの。
要するにアラームです。
「許せない!という感情もアラームです。
「許せない!」は駄目だとは言わないし、他人がそんなことを言う権利もないけど、本当はそれ以上に意味はないんですね。
アラームとして機能する以上に何時までも鳴り続けてたらとめないといけない。
なぜなら、そうでないと最終的には怒っている人自身を傷つけます。
「許せない!」というのは実は自分に対してアラームを鳴らし続けることです。
罪は懺悔によって消去する。懺悔したらアラームは止めるのがその役割です。本来はね。
だけど消去したくないんです。そういう思いがある。
そこでショックのあまり時間が止まってしまうんですね。
蜘蛛の巣にかかったみたいに。

だから大事なことは懺悔すること、そして懺悔すれば許すことと基本的には仏教では考えるのです。
許すこともまた実体はない。我々の社会にのみ存在する認識です。
天地自然の中には罪もなければ、許しもない。
たとえば狐がウサギを捕えて殺す。そこには殺生があるけど罪はない。
そこに矛盾する思いは感じるけどそれは我々の人間社会におけるアラームが鳴っているんですね。
狐は自然の摂理にのっとって他の動物を食べて生きている。植物も生き物と考えればそうなる。狐でなくても全て同じです。そして肉食動物には肉食動物ならではの役割があります。

だからクリスチャンの方には申し訳ないですが、私は聖書にある「ライオンが草を噛み、羊と戯れる世の中」は来ないと思います。
だってライオンは肉食動物だから。もし草食系のライオンがいたらそれは別種です。(ネコ科動物は全員肉食系です)
私は食べることは自然の摂理と想っています。
僧団ではわざわざ殺したり、肉の提供を要求したり、殺されるところを見たらそれは食べないという。
これが「三輪の浄肉」の教えです。
それは慈悲の方が上の概念だから大事にするんで、そのいわんとすることは肉を食べること自体が罪だということではないのです。
慈悲を大事にする。そういうことでしょう。
だって生き物は他の生き物を食べていますから。

仏教徒は狐がウサギを追っかけていたら石でうってやめさせるべきのでしょうか?虫が蜘蛛の巣にかかっていたら助けないといけないですか?
そんなことはいわれていません。
それでは狐やクモはどうやって生きていくの?
殺生をしないために、たとえ完全な菜食主義者になっても山や林をなくして野菜を作るのに多くの虫や鳥が死ぬ。そこは同じ。
そのための労働力も必ずしも菜食主義から生まれ出てくるわけではないし、世界中が菜食主義になったらいい世の中になるのかどうかわからない。まあ、比重を変えることは体にはいいかも。
別に完全菜食主義自体を悪く言う意図はありません。
より仏教的那アプローチではあります。
しかし、我々はそういう矛盾の宇宙の中で生きている。矛盾を感じながら生きる。それも人間だからです。
だから矛盾は解決されないけど矛盾を感じて生きていくのは大事なことです。
それが我々が人間であるということ。ベジタリアンもその矛盾の中でのひとつの抗いとしてはあっていいと思う。

自然は理としての仏もしくは全能の神と仮に考えれば、我々を生かすシステムとして機能している。
その機能は「自然の慈悲」という考え方はできると思います。
但し個人個人に対しては「天は無情」です。
そして、ジャッジする機能は自然にはない。
だからつきつめれば許そうが許さなかろうが罪には実体があるものではない。それができるのは我々が人間だからです。人は人を裁けないなどと言いますが私は真逆です。人だからこそ裁くのだと思います。

罪は時間とともに去り、過去となリ、そこにあるのは「許せない感情」だけです。
だから神道では大祓いの祝詞で祓戸の神々が罪を海に浮かべ、呑み込み、吹き放ち、そしてどこかへやってしまう。
そうやって失ってしまう.。
失ったらもう何も無くなるんです。
もともと実体はないので。
大祓には仏教の極意がさらりと簡単に語られている。
そういうところが神道のすごいところですね。
勿論、大事なことはさすらい失うのは罪だけでなく、許せないという怒りも同じでないと意味ないですね。