人は罪を犯すもの。
人は人を傷つけやすいものであり傷つけられやすいものです。
懺悔文を唱えて仏教では懺悔します。
「我が昔より造る所のもろもろの悪業は
皆、始めなき貪り、瞋り、愚痴に由って身語意より生ずる所なり、
一切、我今みな懺悔したてまつる。」
でも不思議なもので往々にして抵抗もなくこれをサラサラ唱えられるのはとりたてて罪の自覚がない人の方が多いでしょう。
実際世の中で非難を受けたり、罪を得たりすると逆に唱えられない人もあるはずです。
もう自分には仏さまに合わす顔がない。
仏に手が合わせられない。そんな資格などがない愚かでとことんくだらない存在なのだ。
信仰があればあるほど逆にそう思うかも・・・・
でもそれは本当は無意味です。
どんな罪があったとしても懺悔は出来ると思う。
死刑になるような罪でも懺悔はできる。
そう思います。
しかし、それは本人と仏様の間のことです。
私は世間法と仏法はまた違うので、人を殺すなどの重罪を犯せば、たとえ極刑にならなくても重い刑罰を受けるのは当たり前だと思う。
法律は世の中を守るもので宗教ではないからね。
罰をなるだけ軽くすべきとかとも思わない。
何故ならすべてを知り給う御仏と我々はうからです。それは仏だからできることだし、だからこそ仏様に懺悔する。
世間やや自分が迷惑かけた人に懺悔するのとは違う。
懺悔は謝罪ではない。つき詰めれば自分自身に対する謝罪です。
(だから謝罪や罰は別に必要なんです。)
仏様の前で懺悔したいならそれはその人の己心中の懺悔ですからできるはずだし、仏様は決してその人を否定しないでしょう。
死刑になる人でも。
それが仏と神の違い。
仏のみ前に許されない罪はない。本当に懺悔したいならね。
准胝佛母の真言を唱えていく独部法も煎じるところは懺悔の法なんです。
懺悔とは一切の敵を作らぬ法。心より悪かったと詫びて和解する法。
だから本当に懺悔できれば晴れ晴れとなるのが本当なんですね。
もうかばうべき存在はそこにない。
理屈もいいわけも捨てる。そうでないと懺悔にならない。
どんな悪い行いにも理由は有ろうから。
人は申し訳ないと思うからううしろめたい罪人になるわけじゃない。
申し訳ないと思うことで罪と自分を初めて分離できるんですね。
そしてその分離の上人になってく、たとえば准胝佛母様です。
だからどんな人でも真言を唱えていい。
オンシャレイシュレイジュンテイソワカと唱えていい。
許されるということは究極は自分を許すことです。
自分を許すのは普通の考えとは違い、無抵抗ということ。
まな板の上のコイになって佛母様のみ前に横たわる。
それはもう愚かな自分をかばわないことである。
かばえばまた罪の側に立つことになる。
だから、御仏に手が合わせられないような罰当たりな自分であると気が付くことが本当に仏に手を合わす第一歩なんだと思うんですね。
それを別に偉そうに言うわけじゃない。
みんな一緒です。あなたも私もあの人も。
仏法はまず罰当たりな己れを見つけること。