金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

懺悔文

仏法は懺悔から始まります。

その罪の多くは認識していない過去世の罪です。

故に懺悔文に

「われ、昔作るところの諸悪業は皆無始の貪瞋痴による

もろもろの身口意によって生じるところ 一切皆懺悔す」とある。

つまり、無条件に過去世の業を認めるところから入る。

それが信仰の第一歩。

「前世なんかあるわけないだろ」という人は仏教徒ではない。

この最初の仏の教えに頭が下がらないものは仏教徒ではない。

どんなに仏教的に知識があっても。学があってもただの知者というべきだ。

どんなにダメ人間でアホ人間でももこれが認められ。手が合わさる人が仏教徒です。

そのほかに仏教徒など存在しない。

 

これをいうと「悪い自覚がないのに懺悔なんかできない!」という方もいます。

悪い自覚のあることなど多寡が知れている。

そもそも仏教でいえば悪い自覚がないことの方が大きな業になるのです。

 

そもそも懺悔は自己が悪いからするのではない。自己の実相が仏性だからこそするのです。

仏教の懺悔は反省なんかとは違う。もうどう考えても反省の仕様のないところ、悪い自覚がまるでない。それだからこそ懺悔する。

それを言うのが懺偈文。

遠い過去世から悪のかたまりのような自分を見据えろというのではない。

本質がそういう悪の塊なら懺悔しても無駄だ。

善悪の悪を懺悔するのでhない。生き物のサガを懺悔するのだ。

学生のころ、ある仏教集団に連れていかれて「誰でも自己の心の奥を見ればどすぐろい、真っ黒い業が見える。それはどうにもならない。それを見据えなきゃだめだ。だからこそまことの仏教は阿弥陀さんにすがるほかない。ほかの信仰はすべて無意味だ。」と言われた。

「正直、そういわれても、霊能者じゃあるまいし、過去世の業なんかそんなもの私には全然みえないよ。そう言うからには、あんたはよっぽど、どす黒い自分が見えるんでしょうけど…」と言ったら激怒した。

仏教の懺悔はそういう自覚のあるなしは関係ないと思っている。

そもそもその程度で激怒すること自体が懺悔もないし阿弥陀さまの本願にもれる人としか思えない。

どこに業の認識があるんだろ。この人。

阿弥陀一仏以外はありえないというのはおのれの自覚であっても他人に言うことじゃないと私は思っている。

これが法華経でも密教でも同じことだ。

 

 

だがとりわけ私は丸投げの仏教はダメだと思う。

いままでのところ准胝独部法と宝篋印塔供養はほぼ間違いのない秘法です。

これらはただ拝んでもらうのではなく、行自体は霊障や業障に悩む人がご自分がせねばなりません。

自分の業は自分の行為で作ったのですから、自分の行為で解消せねばいけない。

ただし懺悔の心を失っている人はたとえ100万遍行っても何も変わりません。

霊障お断りの理由の一つは他人のお祈りでなんとかして~というだけの丸投げの人が多いから。

頑張って行するなら考えますがね。

正しくは宝凾印陀羅尼も准胝独部法も伝授を要します。