過去世の罪業ということを仏教では言う。仏教は三世思想だ。
今を中心に過去も未来も無限だ。
だが最近はトーンダウンしている。
過去世自体あると思わない坊さんも多い。
来世は葬式する都合上あまりないとは言えないようだ。矛盾の極みだ。
私は仏教は業論を中核とする教えだと思っているので業論を否定する教えは仏教と思わない。
懺悔文に「無上甚深微妙の法は百千万劫にも合いおうこと難し。我、今一切皆懺悔し奉る」という。
今にこれも言わなくなるだろう。
仏教に出会うことはなかなかないこと、稀有なことだというのだ。
それは人間として生まれること自体が難しいこと。
しかも仏教のある国に生まれ、仏教を学べる心身を備え、仏教に心を寄せ、学べる環境が整わなくてはならない。
だから仏教に出会えば「過去世の一切を認識して懺悔できる」というチャンスがあるというのがこの懺悔文である。
「懺悔すれば過去の罪は消える。」というのが仏教だ。
過去世について言えば今まで認識していないことを積極的に認識したうえで否定するというありかた。
懺悔するということは「ああ、自分はなんて悪いやつだ。どうにもならない。」でズーッと止まっているなら、それは仏教の懺悔ではない。
むろん身に覚えもない過去世の罪を意識したり認識なんてできない。
だから今ある不都合から推測するだけ。
ただし、その程度がひどかろうと軽かろうとそこは人間自体の値打ちには関係ない。
無始の過去だもの。皆同じようなものだ。
だれであっても、どんなことがあっても不思議じゃない。
ダライラマは東北大震災をカルマと言って非難された。
だがこれとて被災した人がとりわけ罪が深いからこうなったという話ではない。
仏教を知らず、業という認識のない現代では人々はそうとしか思わないのだろう。
逆に被災地で「神様がいたらぶん殴ってやりたい」というシスターや災害を「神も仏もない」という尼僧が「愛と共感の人」として拍手喝さいを浴びる時代だ。
申し訳ないが私はこういう人たちは宗教者としてはニセモノであり「神や仏の裏切り者」だとしか思えない。