四恩を礼拝したら、次に懺悔文を唱えます。
これは唱えるといっても戒師が読むのに次いであとを復唱する形。
我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋癡
従身語意之所生
一切我今皆懺悔
我れ昔より造る所のもろもろの悪業は
皆無始の貪瞋癡に由る。
身語意より生ずる所なり、
一切我今、みな懺悔したてまつる。
懺悔というと私は何も悪いことはしていないという人もいます。
でもこれは刑法や民法のいう悪い事だけではないのです。
具体的には五戒で触れますが、人は知らず知らずに罪を犯す。
人間界だけでないなら日々食べている食材だってみな生きていたものです。
大きな殺生のカルマを作っている。
どんな人でもそうです。
その意味では懺悔しながら罪を作っているのが我々です。
そして過去世の罪も懺悔する。無始の過去よりの懺悔。
貴方が三葉虫や恐竜だった頃も懺悔する。
ですからこの懺悔はただの「ごめんなさい」ではない。
罪悪感に染まれという意味ではない。
罪の認識におわらず業の認識です。
誰でも個を生きていると考える以上はそうなる。
そこを超えるものは命はつながっているという認識だけです。
実は個は個でありえない。
そこに気づきがある、
懺悔の一番大事な意味はそれです。
全ての生命とともに生きていく出発。
断絶した個の生き方はしないという出発です。
生きなおしの第一歩。
これが無い人は仏教徒ではないと思っています。
つづく