ここ7年間あまり、「孚事務所」の飯田吉宏先生に易を学んできたがいよいよラストに近づいた。名残惜しいが来月でおしまい。
勿論この学びにも終わりはないのだが一区切りだ。
今日は「風山漸」の卦がテーマでした。
「風山漸」六つの爻は水鳥が雛から成鳥となって大空を行くまでの成長になぞらえて人生の歩み方を説く。
「風山漸」は理想的な成長を説くがその歩みは決して平坦ではない。
前にもこの課は講義受けているのに、今日ここにいたってはじめて「ああ、易卦の六爻の位に爻は不正にもあれば正もある。比している爻もあればそうでない爻もある。応じているものも応じていないものも」
という至極当たり前のことに改めて気が付いた。
そうだ!
易の六爻が人生を現すならが人生を現すなら紆余曲折や失敗も当たり前のことなのだ。
はじめから終わりまで順風満帆の人生などありえないのだと。
だが、なぜか人は過去の失敗や恥を以てとかく人を測りたがる。
いまのその人を見ずにだ。
人生とはそのようなものではない。実はある意味恥や失敗あらばこそが人を作っている側面もある。
そこを全否定するのはそれはあまりに幼稚な人生観だ。
色々あって当たり前。
恥もあれば失敗もある。懺悔もあれば忘れられない悲しみもある。
それをかいくぐって今ここにある。
それが人生だ。
今日のラストに講師の飯田先生が師匠の竹村先生にご自分を紹介されたときの話をされた。
「この人はわずか六年でここまで易を学びました。すばらしいと思います。」と言われたとか。
飯田先生は自分は「易を学んでわずか六年」なのだというのにいささか衝撃を受けたという。
だが人生を学ぶことが易を学ぶことならば、やはり「わずか六年」なのだろう。