神仏のお試しとか、神の試練はある?
「試す」というのは適当ではない言い方です。
神仏が我々を疑って試すということはない。
ただ信仰するとなにがしかの困難が起こってきて「いったいこれは?」と戸惑うことはある。
これはだいたい本気で信仰する人だけの話です。
聖天信仰の方は昔から「お試し」という。
例えばお酒を断ち物すればどうしてもお酒を飲まされるような場面に行き会うというのです。それで飲んだら願掛けはお終いという。
でもこれは聖天様がこいつはどうだろうと試すのではなく、習気(ジッケ)という阿頼耶識に落とし込んでいる習慣性の因縁が発動するので聖天様が試すわけではないと思う。
だから断ち物して祈願するのは意味がない。自分で修行のために酒やたばこや良からぬ遊興を辞めるのは「祈願」ではなく人としての在り方の問題だ。
自分い自分で課するならいいが断ち物せねば神仏に受け入れられぬと思うのは手前勝手な心だ。
霊狐さんからは
「こ奴がどんな奴かなど神仏は皆知っている。
わざわざ神仏がそれを試すような無知の行いなどしない。
ただ、眷属霊はこいつを鍛えてやれというのはある。
しかし、試練と思おうとも、災難と思おうとも、いずれも己れの因縁になきことは出ないものだ。いかなることが起きようともそれはみな自己の因縁のうちである。
よって何が起ころうとも因縁になきことは起こらぬ。神仏を恨むのは大きな間違いだ。」といわれました。