三宝荒神とはいかにも不思議な名称だ。
三宝は仏法僧だがそこに荒神という名がつく。
三宝荒神の眷属、貪欲神、障碍神。飢渇神。
荒神供には飢渇神や障碍神を除く真言が出てくるが貪欲神はない。飢渇、障碍も皆貪欲より出る。貪欲こそ煩悩の主だ。
その貪欲神。五色の貧蝦こそがそもそもの荒神そのものであり、この貪欲を調伏できるのが宇賀神王である。
蛇形の宇賀神が蝦蟇の上にわだかまる姿はそのまま貪欲の調伏を表現している。
荒神の上にも宇賀神が・・・
だが人間は欲をすべてなくせば屍と変わらない。
大乗仏教の前提は存在の肯定。
生きていくのに妨げになる欲を煩悩という。
一切の欲がなくなれば人はおしまいだが貪欲はあくまで己一人の欲、その根源は欠乏の恐怖と不信感から出ている煩悩だ。
欠乏の恐怖と不信に支配された人間にはいかに幣帛を費やそうとも信仰などないのだ。
欠乏の恐怖と不信感はそのまま最も人の心を害する凶器となる。
貧しきは幸いなどではない。
それは心の飢餓に直結する。
古来、荒神を信仰せねば災いを呼ぶというが、荒神の真の信仰とは貪欲の調伏をいう。
欠乏と不信を離れるには自己へ向いていたベクトルが他者に向かねばならぬ。
その時、荒ぶる神は欲望を持ちながらも如来荒神となることができる。