聖天像の中で祈って最勝と言われるのが双身像。
だから日本に現存する聖天像は源流のガネーシャと違いほとんど双身天だ。
これは仏教の世界でうまれたものだろう。
今のインドに双身天の遺作はないようだ。
人と人が和合するには自我が抑えられねば和合にはならない。
ああしたいこうしたいをいいあってばかりはやがて決裂する。
人を自分の欲しいもののリストに入れているような考えの人もいる。
あの人だけは手に入れたい。人は物品ではない。
そういう考えではそこに和合は生まれ難たいものだ。
双身像が最勝なのはそこには男女二天ともそこに相手に譲るという「無我」があるからだ。
愛情には無我が伴わねばなにも譲れない。
綱引きになる。
己を譲らず、変容を拒む人に和合はない。
固くななだけだ。全くもって褒めたことではあるまい。
二人ではあっても和合した二人は個々の二人とは違う。
そこには変容が生まれている。それが双身天だ。
ビナヤキャ王だった歓喜天は凶暴さを納めて菩提心を起し、観自在菩薩は和光同塵して妙覚の蓮台より下りてビナヤキャ女と変じる。
それはただ歓喜天と観世音を個別に拝むこととは違う。
おのれの我を出し合っては人と人は和合できない。
ことに人の和を求めるには大事なことだ。
これは別に夫婦や恋愛だけでない、商売でも日常の人間関係でも同じことだろうと思う。