この前弟子と荼吉尼天の話になった。
聖天様は大根、弁財天は菓子、荼吉尼天のお供物は柑子。
つまり柑橘類。
手に入らないときは柑子の模型をあげなさいと伝書に書かれている。
季節の果物ですから今みたいに一年中はない。
「それで通じるんですか?」
「通じる通じないは心次第」
もともと上げたいという心で届ける。
もっといえば「柑子」といえばその味を思い出すでしょう。
甘酸っぱい味
その感覚が届くわけ。
「ものそのもの」は届かない。
だから食べたことないものはお供物にならない。
なるべくおいしいと思うものを届けるのもそういう訳。
最も本物があるのに横着して備えないのはただのケチだ。
御納受からは遠い考えだ。
あげておくだけでもダメ。
おいてあるのと変わらない。
これはおいしい!差し上げたい!と。
良く、缶詰は開けないとけないですか?お菓子も包装を解かないとダメなの?とか
聞かれますが、要はおいしそうと思えればいいだけのことです。どうでもいい。