一生懸命やっている新米の行者さん。
自分の考えでしっかりやっていくというタイプと先のよく見えないタイプがある。
どちらも懸命だが、
前者は人を引っ張って行こうと絶えず思考する。目標設定がキチンとしている。
極めて頭脳的。そのための思考錯誤はいつもしている。
さあ、次はどうやって行こうか!というのが課題。
どうしたらより多くアピールできるか?
この人の場合、自分の問題が人の問題だ。
問題解決には自分を投影していく。
後者は外見にはよくわからないが人の要求より自分だ。
神仏が自分に何をせよというのかを絶えず見つけようとする。その姿は正体不明で一見危うげでさえある。
ただ空間をじっと見つめている。考えているのではなく感じようとする目だ。
神仏の答えを待つ。
さあ、どちらが宗教者らしいか?
出だしは同じでも大きく違う。
私は後者だと思う。
この手の人は頭がおかしいだけの人もいるが・・・
そうでないなら育てるなら後者だ。前者は育てる必要はない。勝手に自分のやり方でしっかり目標見据えて生きていく。
だが自分で目標立てたらあとは、神仏といえども彼のスタッフなのだ。
こういう人は欲しいとこどりだ。だからあくまで客分として遇する。
弟子にはしない。なぜなら本心では弟子に庵りたいとは思っていない人だから。
しかしながら、こういう人は宗教業としては成功するかもしれないが、いつの間に大事なものはなくなっているかもしれないね。あまりに世間的だからだ。
最悪の場合はなくなったものが大事なのかどうかもわからないだろう。
神も仏もただのテーゼになっていたりする可能性はある。
それではそこにいるのはもう生きた神仏ではない。
たとえ霊能者であってもそこにはもういない。
宗教家はなにができるとかではなく、まず神仏とどこまでも向き合うことだと思う。