金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

妄念の凡夫にてあるべき

私が高校生のころ「超人」になるための密教を宣伝していた教団があった。

密教という言葉も具体的にはその時知った。

最初何回か通ううち、しばらくしてここは違う。金儲けの教団と察して辞めた。

 

そこの千日の行をやめると「因縁返し」でえらい目に合うというので本当かどうか最後に、その礼拝対象に頂いた宝塔を打ち壊してみたがどうということもなかった。

恥ずかしき若気の至りだ。

それには当時この教団を批判していた真言宗の大徳のおかげが大きい。

私は直にお願いしてお話を伺えた。忙しい中よくもこんなワッパの相手をしてくださった。

天台には「横川法語」(よかわほうご)というものがある、念仏信仰の走りである横川の源信僧都の作だ。

少し長いが引用しておくと

 

一切いつさいしゆじやう三惡道さんあくだうをのがれて人間にんげんうまるることおほいなるよろこびなり。

はいやしくとも畜生ちくしやうにおとらんや。いへまづしくとも餓鬼がきにはまさるべし。

こころおもふことかなはずとも、ごくくるしみにはくらぶべからず。

みうきはいとふたよりなり。ひとかずならぬのいやしきはだいをねがふしるべなり。

このゆゑに人間にんげんうまるることをよろこぶべし。

信心しんじんあさくともほんぐわんふかきがゆゑにたのめばかならわう生すじやう

念佛ねんぶつものうけれどもとなふればさだめて來迎らいがうにあづかる。

どく莫大ばくだいなり。

このゆゑにほんぐわんにあふことをよろこぶべし。

また妄念まうねんはもとよりぼんたいなり、妄念まうねんほかべつこころもなきなり。

臨終りんじうのときまでは一向いつかう妄念まうねんぼんにてあるべきぞとこころえ、念佛ねんぶつすれば、來迎らいがうにあづかりて蓮臺れんだいにのるときこそ妄念まうねんをひるがへしてさとりのこころとはなれ、妄念まうねんうちよりまをいだしたる念佛ねんぶつにごりにまぬはちすごとくにして、けつぢやうわうじやううたがひあるべからず。

妄念まうねんをいとはずして信心しんじんのあさきをなげき、こころざしをふかくしてつねみやうがうとなふべし。

 

この「臨終のときまでは一向に妄念の凡夫にてあるべき」というのは極めて大事だと私は思う。

念仏だろうが法華経だろうが密教だろうがこれは同じことだと思う。

念仏のところを題目だろうが真言だろうが禅定だろうが同じだと思う。

 

さればこそ今日も「妄念の凡夫」を生きよう。

ことさらに「妄念の凡夫」と思いその自覚をもって生きるのだ。

 

妄念の凡夫なればこそ智者の真似は致すまじ。

妄念の凡夫なればこそ妄念の上にもさらなる貪瞋痴は重ねまじ。

妄念の凡夫に上も下もなし。上だからと恐れず、下だからと見下さずだ。

たとえ、いかなる天賦の才あれど、その実は妄念の凡夫たるはなんら変わりなし。

妄念こそ我。我即妄念。

妄念の命だ。

それ以外の私などないのだ。

人は人以外のものにはなれない。

鳥や動物を見れば明白だ。